「幽☆遊☆白書」最速上映会イベントの楽屋で。監督の月川や海外チームのメンバーと談笑する(撮影/横関一浩)

「中学の時、親父に『ごめん、和隆、金がなくなったから、お前は中学を卒業したら働け』と言われたんですよ。しかし、母親は『高校だけは卒業してほしい』と言い、病弱の父の代わりに母が働き、なんとか高校を卒業することができました」

自衛隊で過ごした2年でエンタメを学ぶと決める

 しかし高校を卒業してもやりたいことは見つからなかった。大学に進学する余裕もない。家に仕送りをしなければいけない。悩んだ末、自衛隊に入隊することを決意した。

「迷っていたんです。何をしようか決まってなかった。性格として明確なものを持たないと嫌なタイプで、だからこそ苦しかった。中途半端に『とりあえずここに行こう』と言えなかった。そうなると自分で研ぎ澄ませるしかない。自分の精神を鍛えながらやりたいことを探そうと思いました」

 陸上自衛隊の練馬駐屯地で自衛官として過ごした2年間は、坂本にとって人生の転機になった。特に記憶に残っているのは米軍との合同演習だ。

「ハワイの海兵隊との訓練で、富士の演習場を走り回るんです。僕はカタコトの英語を臆せずに話してたんで、日米の間に入って調整する仕事を任された。そこから必死で英語を勉強した。異文化交流をそこで学びました」

 自衛官のうちにやりたいことを見つけようと探した結果、自分の中に強くあったのは「エンタメが好きだ」という思いだった。

 その頃に祖父の政界での業績を新聞で調べて知ったことも大きな気付きになった。

「祖父は政治家の裏方として、人を育てて押し出していくことに力を入れていた。それを知って腑(ふ)に落ちたんです。サッカーの授業でも率先してゴールキーパーをやりたかったし、野球もキャッチャーだった。バンドでも憧れるのはドラマーだった。ずっと縁の下の力持ちになりたかった。自分の興味関心は裏方にあった。そのことがつながって、スイッチが入った瞬間でもありました」

 せっかくならエンタメの本場のアメリカで学びたい。自衛官の任期を終えたらアメリカに行こうと決めた。手元に残った数十万円の退職金を握りしめ、アメリカ人の友人の伝手(つて)を頼って、ブロードウェイミュージカル「アニー」の全米ツアーの現場に裏方として潜り込んだ。

(文中敬称略)(文・柴那典)

※記事の続きはAERA 2024年1月29日号でご覧いただけます

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