「党内党」として機能
自民党は現在、計6派閥がある。結党時は「8個師団」と呼ばれた8派と、ほかにいくつかの小グループが併存した。と聞けば、結党後に党内に派ができたと思いがちだが、実際はそうではない。合流前の前身の旧自由党、旧日本民主党とも、実態は派閥の連合体であった。
旧自由党には吉田茂氏(元首相)の陣営から分かれた池田勇人氏や佐藤栄作氏(ともに元首相)、大野伴睦氏、石井光次郎氏(ともに元衆議院議長)らの派、旧日本民主党も岸信介氏や石橋湛山氏(ともに元首相)、河野一郎氏(元副総理兼国務相)、三木氏と松村謙三氏(元文相)の派などがあった。保守合同で、これらの派閥が合体して自民党を作ったのである。
派閥は党内の集団だが、全国的な組織ではない。リーダーを中心とする国会議員とその予備軍の集まりである。
接着剤はボスを軸とする人的なつながりだが、掲げる政治理念や路線、政策なども、もちろん大きな要素となる。といっても、決め手は選挙での当落と当選後の議員活動の下支えだ。
96年衆院選の前まで続いた中選挙区制(基本は定数3~5)では同じ党が1つの選挙区で複数の候補を擁立するケースがあった。派閥はこの制度の下で「党内党」として機能してきた。
55年、人的つながりも理念や路線や政策も同じではない「8個師団」が合同したのは、「共通の敵」の社会党が1カ月前に左右両派統一にこぎ着けたからだ。「容共の社会党政権の誕生阻止」の一点で足並みをそろえ、結集の道を選んだのである。
以後、93年まで、自社両党による「政権交代なき2大政党政治」が続いた。代わりに自民党は党内での首相争奪という「疑似政権交代」を演出し、国民の「政権交代なき政治」への不満を和らげるという手を使った。
角栄の政界退場と関係
派閥のボスたちが党内で最も激しい権力争奪戦を演じたのは「三角大福中」のころだった。76年のロッキード事件と88年のリクルート事件の発覚で、積年の派閥支配構造の病巣が顕在化し、派閥は総崩れとなる。自民党は89年の参院選で初の与野党議席数逆転を許し、93年の非自民連立内閣の樹立で、初の野党転落を体験した。