その絵を見た人は立ち止まり息を呑んでいる。
私にとっても衝撃だった。
描きかけの絵の前に片手をついて座る女性の右目の周りには青黒いあざがある。喪服のような黒い着物に紅色の裏地がのぞく。
放心したようにこちらを見つめるその瞳は深い哀しみをたたえているように見える。
その絵を描いたのはまだ20代の女性。今この瞬間にも人々を立ち止まらせる新しさがあるが、その絵が描かれたのは大正7年(1918年)だという。
先々週、今かかっている単行本の取材の最後のつめで大阪に行く機会があり、そのときホテル近くに新しくできた大阪中之島美術館にふらりとよった。
「女性画家たちの大阪」と題された企画展に、当時26歳だった島成園(しませいえん)が描いたその日本画は展示されている。
島成園は、大正元年(1912年)に、当時もっとも権威のあった文展(文部省美術展覧会)に入選し、大阪から彗星のようにして現れた画家だ。そのときまだ20歳。しかもどの師につくこともなく、幼い頃兄から手ほどきをうけただけで独学で日本画を描いた。
島の登場によって大阪の女性画壇は活気づき、大正4年までに、岡本更園(おかもとこうえん、木谷(きたに(吉岡))千種(ちぐさ)、松本華羊(まつもとかよう)という20代の大阪在住の女性画家たちが次々に文展に入選する。当時の画壇は、制作者も選考委員も男性が独占していた時代の快挙だった。
四人は年齢も近く気があい、「女四人の会」を結成した。自らの発案で大阪三越で「女四人の会」第一回展覧会を開き、当時はその一挙手一投足をゴシップまじりに新聞が追いかけるほどの人気を博した。
戦前は全国的に人々を魅了した大阪の女性画家たちだったが、戦後、高度成長期のなかで大阪の人たちにもすっかり忘れ去られ、絵画やその資料は散逸してしまっていた。
忘れられた女性画家たちを発掘する
その歴史の塵に埋もれていた女性画家たちを掘り起こし、今によみがえらせた一人が、大阪中之島美術館の学芸員の小川知子だ。