どういうことかというと、難聴のせいで、聞こえなくったって、多少は不自由をしますが、どうせ大したことはないだろう、聞こえなきゃ聞こえないで、知らんぷりをしていればいいんだ、という変な開き直りが出てきて、物事を曖昧に済ませてしまうことが多くなりました。それは僕の考えにも影響を及ぼし、考え全体に対してもいい加減になってきているように思います。何が正しくて、何がそうでないのかというようなことも、それほど重要ではないように思うのです。理解の範囲がうんと狭められてきたが、それはそれで便利がいい。人になんと思われようと、どうでもいいじゃないかという考えに到達してくるような気がするのです。つまり人に何と思われようが、知ったことではない。別に嫌われたっていい、自分が自分であることの方が、ずっと大事だと思うようになるのです。
そうした考えは、絵にも影響を与え始めます。つまり、他者や世間という社会意識が希薄になってくるのです。三島由紀夫さんが生前、僕に言った言葉で「人は人、自分は自分」という考えが妙に確立されてくるのです。他者意識とか社会意識が希薄になってくるのです。これが他と共存しなければいけない立場の人にとっては困りものですが、僕のように対峙する相手がキャンバスの場合は、かえって、このようなハンディキャップは必要なのかも知れないと思うのです。
つまり世間の通念や常識は必要ないように思います。他人と競争することや、世間の流行や通念など全く不必要になるのです。自分を束縛していたことから解放されて自由な気分になってくるのです。何をやってもいいんだ、芸術なんてちっぽけな枠の中で、不自由さの中で、やっていたことが、おかしく見えてくるのです。芸術家でありながら芸術を否定することの快感が快楽になってくるのです。
最も評価されるはずの社会的な関心や発言などで自己という枠の中で規制していた自分のキャパシティーの狭さに疑問を抱くようになるのです。「人は人、自分は自分」の境地こそ自分のアイデンティティーであることが見えてくるのです。