だが、就任直後の春季キャンプで練習法をめぐって立花龍司トレーニングコーチと対立し、オフの退団劇に発展。立花コーチを信頼する野茂英雄、吉井理人ら投手陣との関係も悪化した。
さらに2年目の94年開幕戦、西武戦では、8回まで無安打無失点に抑えていた野茂が9回に満塁のピンチを招くと、「今日は野茂と心中や」の公約を覆し、赤堀元之に交代。直後、赤堀が伊東勤に逆転満塁サヨナラ本塁打を浴びるという皮肉な結果に……。同年オフ、野茂は任意引退を経て、ドジャースに移籍したが、近鉄OB・金村義明氏の著書「プロ野球 勝てる監督 負けるボス」(実業之日本社)によれば、野茂は「僕は決して好んでメジャー移籍を志願したわけじゃない。ただ、あの監督のもとではやりたくないと思った」と打ち明けたという。金村氏自身も同書の中で鈴木監督を「あの落合さんも真っ青の超個人主義にはついていけなかった」と回想している。
野茂、吉井、金村、阿波野秀幸、小野和義ら、仰木監督時代の主力が次々にチームを出ていったあとの95年、近鉄は8月に入っても最下位と低迷。同8日、鈴木監督は休養を発表し、チームを去った。「これ以上、あなたの顔に泥を塗れない」と告げる球団社長に対し、かつての300勝投手は「わしは(恩師の)西本(幸雄)さんにはなれんかった」とつぶやいたという。
“野村ID野球”の優等生として計4度の日本一に貢献し、南海時代の野村監督同様、プレーイングマネージャーに挑戦も、わずか2年で幕引きとなったのが、ヤクルト・古田敦也監督だ。
現役時代からチームの司令塔を務め、「いつでも監督に就任できる」の呼び声も高かった古田は06年、ファン待望の監督に就任。「若い選手を育てながら、勝たないといけない」と決意を語り、捕手との二足の草鞋についても、「大変だが、やると決めた以上、腹を括ってやる」と誓った。
1年目は、公約どおり若手を起用し、自身は代打で出場する場面も多かったことから、“代打オレ”も流行語に。チームも70勝73敗3分と負け越しながらも、3位に入った。その一方で、選手としては出場36試合にとどまり、一人二役の大変さも露呈した。