オリックス監督時代の石毛宏典氏
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 現役時代は名選手、監督としても優れた実績を残した野球人といえば、リーグ優勝5回、日本一3回の野村克也を思い浮かべる人も多いはずだ。リーグ優勝5回、日本一2回の長嶋茂雄、リーグ優勝4回、日本一2回の王貞治も然り。その一方で、「名選手、名監督にあらず」の格言どおりの結果を招いた名選手も少なくない。

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 西武黄金時代のチームリーダー・石毛宏典もその一人だ。

 2002年、「野球人として一度は監督で勝負したかった」と“外様”の形でオリックスの監督を引き受けたが、1年目は50勝87敗3分で、オリックスになってから初の最下位に転落。借金「37」は前身の阪急時代を含めても球団ワーストだった。

 イチロー、田口壮らの主力が相次いでチームを去り、戦力不足もあったが、新外国人・セギノールの起用法や葛城育郎の打撃不振を招くなど、采配面や指導法に疑問の声が出たのも事実だった。

 そして、翌03年も成績が上がらず、4月23日、異例のシーズン開幕1カ月後(20試合)の解任劇となった。

「振り返ると、『自分が勝ちたい』『選手を何とかしてやりたい』という気持ちが強すぎたのかもしれません。選手やコーチに対して、厳しすぎたという反省はあります」(日経ビジネス2003年6月23日号)。

 石毛は西武選手時代の94年オフ、堤義明オーナーから森祇晶監督の後任に指名されながら、現役続行を望んでダイエーにFA移籍。そのダイエーでも、王貞治監督の後継者と目されながら、2軍監督を1年で解任されている。

 結果論になるが、あのとき西武の監督を引き受けていれば、黄金時代の戦力を踏襲し、その後の野球人生も変わっていたように思えてならない。

 現役時代に通算317勝(歴代4位)を記録した大エースでありながら、監督3年目のシーズン途中に解任されたのが、近鉄・鈴木啓示監督だ。

 93年、仰木彬監督のあとを受け、5年契約で就任した鈴木監督は「苦しみの始まりだと思っている」と責任の大きさを受け止める一方で、「1年目からガンガンいきたい」と力強く宣言した。

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