ところが、会社に入っても「何も分からない、発言できない、つらい」状態が続く。首都圏営業部に配属され、問屋や小売店を回った。

 ある日、自宅にいた吉川は「おお、龍一。おまえんちの近所の根岸商店(1924年創業)に来てるぞ」と電話を受けた。出かけていくと酒店の親父さんとレジャバは仲良く話し込んでいた。が、商談を終え、帰っていく後ろ姿は寂しそうだった。

「海外支社に行かせてほしい」とレジャバは上に直訴した。海外営業部に配属されたが、現地駐在員の生活を垣間見て、限界を感じる。先が見え、2015年に会社を辞めた。そのころ、ジョージアは政治が安定し、経済が上向いていた。

「一か八か、ジョージアに帰ろうと決めました。まったくコネクションはないし、ゼロからの再出発です。仕事は定まってなくて、両親はシンガポールに移っていました」とレジャバはふり返る。

起業後に外務省から連絡 臨時代理大使として来日

 トビリシに戻って、旅行会社を立ち上げようとしたが、スタッフがそろわず、断念した。収入もなく、途方に暮れていると貿易業者から日本の自動車部品を輸入するのを手伝ってほしい、とオファーが入る。主にタイヤの買い付けに奔走した。

 17年、少し余裕ができて「LLC Delivery」を起こす。スーパーの商品をウーバーイーツ方式で宅配する会社だ。ジョージアではEコマースが浸透しておらず、ライバル会社は数百品目を2、3日かけて顧客に届けていた。レジャバは、3千商品を「45分」で届けるしくみを構築する。消費者ニーズをとらえ、業績はぐんぐん伸びた。

 このまま青年実業家への道をまっしぐら、と思いきや、予想外の方向から話が舞い込む。相手はジョージア外務省だった。東アジア、とくに日本との外交戦略を強化したい、興味はないかと打診された。こんなチャンスはめったにない。レジャバは、会社を譲渡して国家公務員試験を受け、採用される。本国で参事官に任命された。日本と韓国の担当デスクを務めて制度を頭に叩(たた)き込んだ。

 そして、19年8月、臨時代理大使として来日したのである。吉川や辻は「大使」の肩書がついたレジャバを眺めて「天職だ」と喝采を送った。

 各国の大使は、キャリアを積んだ外交官と、民間企業やアカデミアから登用された人材に分かれる。レジャバは後者だ。責任の重さに緊張しつつも「日本もジョージアも固有の文化があって共感できるところは多い。でもまだ距離がある。両国の間に立って距離を縮めよう」と心に期した。

 外交は、経済などと違って成果が見えにくい。そのなかでXのフォロワーは数字に表れる。レジャバが身の回りの出来事をユーモアを交えて投稿すると、たちまちバズった。娘が通う保育園のスタッフが、日本語を話せない妻のためにイラストと簡単な英文を添えたメモを送ってくれた。それをアップし、「おもいやり」に感謝すると、4.5万の「いいね」がつく。「親戚の少年」シリーズもフォロワーを集めた。ジョージアから来た甥(おい)っ子がドン・キホーテで買ったお菓子を食べ比べ、梅干しを前に渋い顔をする姿は何とも微笑(ほほえ)ましい。ジョージアの知名度は上がった。

 ジョージアは古くて新しい国だ。北にロシア、南はトルコとアルメニア、アゼルバイジャンと接し、西に黒海を望む。北海道の8割強の面積に約370万人が暮らす。1人当たりのGDPは6671ドル(22年:国際通貨基金推計値)と日本の約5分の1にとどまる。08年にはロシア軍の爆撃を受け、いまも2カ所の「占領地域」を抱える。

 この国は数千年のワイン造りやキリスト教の伝統を保ちながら新しい活力を求めている。レジャバの奮闘で、素顔のジョージアと向き合う人も増えた。共通の友人の紹介で知り合った和菓子メーカー「虎屋」の社長、黒川光晴(38)は、23年9月、ジョージアを訪ねた。その印象をこう語る。

「大きなワイナリーの収穫祭に参加させていただいたのですが、ジョージアの『食』のポテンシャルの高さをひしひしと感じました。家庭でブドウを育て、自家製のグラッパをつくったりしています。食料自給率の低い日本にとっては、今後、大切なパートナーになるのではないでしょうか」

 不易流行という言葉がある。不易は変わらない本質、流行は変化する新しさを指す。両方はつながっている。レジャバは不易流行を噛(か)みしめて、今日も妻がこしらえた弁当の写真をXにあげる。

(文中敬称略)(文・山岡淳一郎)

AERA 2024年1月15日号

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