文面から繊細な気遣いが伝わってきた。
北陸視察から50日後、東京でレジャバと再会した私は、「壁と卵」を引いた心情について訊(たず)ねた。村上春樹は壁に「システム」の意味も託していましたね、と言うとレジャバの目の光が強まった。
「そうです。システムです。自分は就職活動なんかも苦手で、決められたシステムへの抵抗感があって、空回りしました。卵の話じゃないけど、自分自身の個性や、考えを大切にしてきました。もちろん社会では、システムを通じて表現しなくてはならないことがあります。バランスをとらなくちゃいけない。そこはとても重要です。でも、完全にシステムに取り込まれたら空(むな)しいですよ」
システムという壁は、もの心ついたころから周りにそびえていた。4歳で生物学研究者の両親とともに来日し、広島に住んだ。広島の小学校に入学したが、間もなく、ジョージアに戻る。米国に移って数年過ごし、ふたたび日本に来て、小学校5年に転入した。一家は目まぐるしく転宅した後、茨城県つくば市に腰を落ちつけたのだった。
モダンなビルが並ぶつくば駅前から西へ、幹線道路を2キロほど下ると、畑とロードサイドのラーメン店が目にとまる。その先の狭い脇道を南に折れ、遊歩道に入る。アカマツやクス、銀杏(いちょう)の巨木が連なり、芝生地に日が降り注ぐ。池には水鳥が浮かんでいる。別世界に迷い込んだようだ。高名な建築家がデザインした戸建て住宅と道一つ隔てて古い県営アパートが立っている。ここがレジャバのホームタウン、つくば市松代地区である。
遊歩道の左に転入した市立手代木(てしろぎ)南小学校の校庭が広がる。友だちはレジャバをファーストネームの短縮形で「テムカ」と呼んだ。家族もそう呼ぶので、テムカのほうが本名らしく聞こえる。
中学に上がる春休み、テムカは友人とハンドボールに夢中になった。運動神経はよく、サッカーやバスケットボールも得意だったが、ハンドボールの虜(とりこ)になる。市立手代木中学に入り、仲間とハンドボール部を新設した。「サッカー部に入ってそれなりに終わるより、新しく何かに挑戦したかった」と本人は言う。公立中学で部活を設けるのは、指導体制の問題もあってかなり難しい。PTAに支援されてシステムの壁を一つ乗りこえた。
とはいえ、1年生だけのチームは弱かった。ユニフォームがなく、体操着で試合をする。コテンパンにやられたが、筑波大学のハンドボール部員のコーチングを受け、腕を上げた。他校の上級生が卒業すると、手代木中は強豪にのし上がる。
中3の夏、手代木中は茨城県大会に駒を進めた。県大会の上位2校が関東大会に出場できる。そこで勝てば全国大会への道が開ける。
知らない人でも仲良しに 異端児ともつき合う
関東大会への出場を懸けた大一番、前半を終わって手代木中はライバル校にリードされていた。
後半が始まる前、コーチが不意に訊ねた。