備蓄はいったん尽きたが自衛隊などの支援が入り、役場から食料などが届くようになった。それでも食料、水、毛布、カイロなど、あらゆるものは不足した状態が続いていた。通信状況が悪く、避難所間での連絡が取れないため、物資のシェアができなかった。

「救援物資でその日をしのぐという状態が続いていました」

避難所でのトラブルも

 余震が何度も起きていた。筆者との電話の最中にも聞こえてきたが、「パトカーや救急車が各地から集まってきていて、サイレンの音がすごかったです」。

 そして、避難所では人が増えていくことでトラブルも起きていた。

「少しでもゆったりとしたいと、場所を広げようとする人がいて、そうなると外から入れない人も出てくる。それに、誰が仕切り役になるかも決まっているわけじゃない。幸い、私のいた穴水町の避難所では、町役場の人が避難してきていました。私も地元の議員なので、憎まれ役になるかもしれないけれど、みなさんにお話をして納得してもらってと、やっていました」

 近藤氏は、穴水町の避難所で2日間過ごし、党の災害対策本部での担務につくため、金沢市に向かった。国道沿いでは災害派遣の車が何台も北上していくのを確認できた。

 だが、近藤氏は輪島市、珠洲市などの状況はわからないという。

「穴水町の避難所に輪島市の人がいて、帰ろうか迷っていました。輪島市の救援態勢は、穴水町よりずっと厳しいと聞いています。道路も通行できるのかわからないし、道中で被災することがあるかもしれないので止めました。全国から直接、支援物資を届けたいという方もいらっしゃいますが、まだ地震が続いていますから、見合わせてもらった方がいいと思います」(近藤氏)

「朝市通り」が燃えた

 輪島市の観光名所として知られる「朝市通り」の近くに住む新木順子さん(75)と電話がつながった。周辺は、地震から数時間後、火災が発生し、一帯は燃えてしまった。

「最初は、揺れている、きついかな、と思っていたら、数秒して経験したことがないほどの揺れになりました。津波警報が出たというので、急いで近くの高台に避難しました。しばらくして、朝市が火災だと聞いて驚きました。うちの町内でも出店している人が結構いて、涙を流していました。消防は、現場近くまで来ても道路が陥没して入って行けず、火災が広がったようです」

 新木さんは切実な思いとして、こう話した。

「朝市の周辺も金沢方面からの道が通行できずに2日までは孤立状態でした。なんとか公民館で炊き出しをして、やりくりしてきました。3日になって自衛隊が来てくれたので助かっています。しかし、お年寄りが薬を飲むための水が十分にありません。早く救援物資が届くことを願っています」

(AERA dot.編集部・今西憲之)

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今西憲之

今西憲之

大阪府生まれのジャーナリスト。大阪を拠点に週刊誌や月刊誌の取材を手がける。「週刊朝日」記者歴は30年以上。政治、社会などを中心にジャンルを問わず広くニュースを発信する。

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