掛布雅之(かけふ・まさゆき)/1955年新潟県生まれ。2018年撮影

「屈辱」から始まった大山のプロ野球人生

 今でこそ「不動」の枕詞がつき、押しも押されもせぬタイガースの4番打者となった大山だが、そのプロ野球人生は、これ以上ない屈辱からスタートしている。投手が豊作といわれた2016年のドラフトで、白鷗大で内野手だった大山は、阪神に単独1位指名された。10月20日、ドラフト会議の会場となった東京・高輪のグランドプリンスホテル新高輪には、多くの野球ファンが詰めかけていた。

「阪神、大山悠輔

 そうコールされるや、会場には悲鳴とも落胆ともとれるファンの嘆声が響いたのだ。このとき阪神の2軍監督だった掛布さんによると、大山の1位指名は当時の金本知憲監督たっての希望だったという。

「あのドラフトは、なぜ大山なのかとかいろいろ騒がれました。ドラフト会場内でのファンの嘆息のような反応に、本人は『一生忘れられない。声をあげた全員を後悔させる』と悔しさを語っています。2軍監督をしていた僕も、『エッ?』と思った一人でした。でもスカウトの方たちと話し合い、やっぱり大山がいいという金本監督の一本釣りでした」

 その大山がいま、阪神の不動の4番に座っている。金本の慧眼というほかない。

 大山は18年の開幕戦に「6番サード」で先発出場。金本から矢野燿大監督に代わった19年には「4番サード」でスタメンに名を連ね、翌年には打率2割8分8厘、28本塁打、85打点のキャリアハイを達成した。しかし翌21年の成績は振るわず、10月末には試合でスタメンを外れることもあった。

金本知憲が残した全力疾走する伝統

 このときの大山について掛布さんは、同年に出した著書『阪神・四番の条件』(幻冬舎新書)で書いている。

〈大山が途中出場でヒットを打ったとき、大山はダグアウトを一瞥もしなかった。「なぜスタメンで出られなかったんだ」──自分の野球に対する怒り、悔しさを初めて感じたのではないか。もちろん責任は不甲斐ない自分にある。自分の出した結果に対するチームへの影響を、大山はもっと感じていい。もっともっと、そういう表情を出したほうがいいと思う〉

 大山のそんな表情を初めて垣間見た掛布さんは「少しうれしかった」と記している。

次のページ
グラウンドで大号泣したのは…