――てんぷくトリオはお茶の間をにぎわせ、瞬く間に人気者になったが、ずっと続ける気はなかったという。だが、人生、何が幸いするかわからない。トリオの活動は役者の仕事にもつながっていた。

 てんぷくトリオはコントをやっていたけれど、もともとみんな芝居をやっていましたから「いつか3人で劇団を持とう」という思いがあったんです。3人のうち誰かに役者の仕事が入ったら、あとの2人は応援する。それでうまくやっていました。戸塚は私の6歳上、三波は7歳上。それがよかったんじゃないですかね。私はずっと後輩。弟分的な存在で、もめたりすることはなかった。

 役者としては、映画監督の市川崑さんに褒められたことが、大きな励みになりました。1968年の朝日新聞の元旦の「私の好きな新進」というコラムで「てんぷくトリオの一番若い人。からだとセリフのタイミングが見事」と書いてくださった。驚きましたねえ。あんな大監督が番組を見ているんだ!と。

 これ以降、一人での役者の仕事が増えた。「認めてもらえたのかなあ」という気はしましたね。以来、後輩にも言うんです。「誰が見てるかわかんないぞ。何事も手を抜くなよ」って。

――てんぷくトリオの戸塚睦夫は42歳で急逝。さらに約10年後、三波伸介は52歳で亡くなった。この2人との出会いと別れがなかったら、伊東四朗の役者人生はまた違ったものになっていただろう。

 戸塚さんが亡くなって、トリオができなくなったのも寂しかったけど、さらにその10年後に三波さんが逝くとは思ってもみなかった。衝撃を受けたし、自分も52歳という年齢を意識しましたね。

 そのころから「自分から何かをやる、ということはやめよう」と思うようになりました。他人のほうが私のことを知ってる。だから人に任せたほうがいいって思うようになった。

「おしん」の父親役なんて、自分じゃ考えられなかったですよ。だってあの「電線に、スズメが三羽止まってた♪」の「電線音頭」の後ですよ?

「笑ゥせぇるすまん」もびっくりしましたよ。声をかけていただいたとき、アニメーションの大平透さんの声が浸透していたこともあって、「これだけはお断りしたい」と言ったら、藤子不二雄(A)さんに「あんたしかいないんだ」と言われちゃった。そう言われると弱いんですよ。

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