もし目の前に醜く恐ろしい怨霊が見えているならば、それはあなたの心の内に潜む「心の鬼」が、相手をそのように見せているのではないか。
この紫式部の鋭い指摘は、現代人の心にも地続きで迫ります。もし道長が権謀術策に長けた邪悪な権力者に見えるのであれば、それは(定子の悲劇性と、寄り添う清少納言の献身度を際立たせるために)「そうあってほしい」と考える読者の……つまりこのわたくしの心がそう見せているのでは。そう考えてわが身を振り返ると、たしかに道長には邪悪であってほしいと思っている自分に気づきました。
そうした「偏見」を排して、もっと素直に、虚心坦懐に、史料に記された事実を並べて、そこに文学的な読解手法を加えて見てみると、「人間・藤原道長」の姿がおぼろげながら見えてくる……本書はそんな気にさせてくれる一冊でした。
また、山本氏の本領は第十二章「我が世の望月」を読むとさらに味わえます。上述の「傲慢な印象」の根源となった和歌「此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」の背景と解釈がすばらしい。
山本氏の研究成果によれば、この歌は「此の世の独占」を詠んだのではなく、その場に集った仲間との結束、娘たちの奮闘と成果、このふたつを祝った「円満を祝福する歌」だったと。この手さばき、どうですか。
そしてそして、最終章にあたる第十三章「雲隠れ」では道長の生涯の終着点が記されます。それはなんと、彼の絶頂期の要因となった娘たちから恨まれ、呪われ、先立たれる……という運命でした。道長自身が天皇の祖父となるべく次々と仕掛けた娘の政略結婚は、それが「家族のしあわせ」に結び付く最高の手段だったはず、そしてその目論見は見事に実を結び、権力の絶頂に上り詰めたはず。なのに、まさかその娘たちから恨まれ、呪われながら亡くなるとは……。
この悲惨で凄惨な道長の姿もまた、読む者の「心の鬼」が見せている姿なのかもしれません。
藤原道長は2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』で中心的な役割を担います。「そこ」で描かれる道長の姿は、わたしたちにはどのように見えるのでしょうか。それが令和の視聴者の望む姿であるのでしょうし、本書を片手に、その姿を楽しんで味わいたいと思っています。