哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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差別的な発言をまきちらしている国会議員がいる。その非常識な言動でレイシスト層からの政治的支持を期待してそうしているのだろう。この人を見ていると、差別を根絶することはたぶん不可能だろうと思う。仕方がない。差別は人間的未成熟から生まれるものだからだ。「子ども」を根絶することはできない。
「だったら、差別し放題でいいじゃないか」という極論にいきなり飛びつく人がいる。そういう単純な切り替えしかできないことが「子ども」の証拠なのである。未熟から生まれる悪徳はかように始末に負えない。
だから、差別に向きあう時、私たちは忍耐強く「さじ加減」を見計らわねばならない。ある程度までの差別は「見逃し」、受忍限度を超えた差別には「注意を促し」、それでも矯正されない差別は「処罰する」。
そう聞くと「なんだかずいぶん手ぬるいじゃないか」と不平をならす人がいると思う。でも、今の文字列をよく読んでほしい。「差別」を「ファウル」と書き換えると、これはあらゆるボールゲームの審判たちが現にしていることである。審判の仕事はすべてのファウルを処罰することでもないし、すべてのファウルを見逃すことでもない。その「あわい」に立つことである。
あらゆるファウルを処罰しても、あらゆるファウルを許容しても、ボールゲームは成立しない。ゲームを成立させるためには、ある程度までのファウルは見逃すが限度を超えたら注意し、矯正の見通しが立たなければ処罰するという程度差の適切な見きわめがなされなければならない。審判の判断が適切であれば、プレイヤーのパフォーマンスは高まり、ゲームの質は向上し、ボールゲームがもたらす愉悦は増大する。
差別もファウルと同じように考えてよいと私は思う。差別を根絶することはできない。だが、それを受忍限度内に抑制することはできる。
私たちの社会の「暮らしやすさ」が最大化するように「さじ加減」する技術知を身につけることはそれほど困難な作業だろうか? そんな努力はしたくないという人たちには「では、どんな努力ならしてもよいのか」と私は訊きたい。
※AERA 2023年12月25日号