窪美澄の『さよなら、ニルヴァーナ』は1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件を題材にした、10章からなる長篇小説だ。
 物語は事件の15年後からはじまり、章ごとに、東京で小説家をめざしていたものの挫折して帰郷した女性、加害者、被害者の母、加害者の少年を崇拝する少女の一人称で描かれる。つまり、〈少年A〉と呼ばれた加害者自身がその生いたちや犯行時の状況や心理状態を語り、彼に娘を殺された母親もまたその心情を自分の言葉で吐露していく。そこにインターネットを介して〈少年A〉に惹かれた二人の思惑がからみ、物語は不穏な方向へと展開していく。
 私は一人称ならではの詳細な心理描写に引きこまれながら読みすすめた。しかし、後半にさしかかったところで、実物の〈少年A〉が〈元少年A〉となって『絶歌』なる手記を上梓したと知り、戸惑った。小説の中の彼は、帰郷した女性が暮らす地方都市の片隅にいて、存在が知られるのを怖れつつ陶芸の技を磨いていたのだった……不思議な気分に陥り、私は読みかけの本から離れて考えた。ごく一部の関係者しか知らないかつての〈少年A〉のその後を、小説家が全身全霊で想像して物語にしたとしても、そこに本人が現れて自らあれこれ書いてみせたらいったいどうなるのか。どうせなら『絶歌』を読んだ方がいいのではないか。
 しかし翌日、私は窪の作品にもどった。ここに書かれているのは、決して現実のアナザーストーリーではないという予感があったからだ。予感はあたった。〈元少年A〉が何を書こうが、この作品から伝わってくる人間の本性の実相には迫れないのではないか。中でも、〈少年A〉のその後を小説に書いて夢よ再びを目論む女性の業の深さはすごかった。その〈少年A〉に対する執着は人を殺める代わりに小説を書きたいと願っているようで、それはそのまま窪の化身ではないかとさえ感じてしまったのだった。

週刊朝日 2015年7月10日号