古いけれど、興味がない分野だけれど、なんだかおもしろそう。そこにはきっとなにかがある。そんな気がして、本の中に入りこんでゆく。それは、まるで隠された財宝を見つける冒険のようだ。屋根裏部屋で、朽ちたお屋敷の隅っこで、不思議な箱が見つかる。埃をはらい、苦労して蓋を開ける。そこには輝く宝石が入っているのだ。

 ぼくにとって「翻訳」はそんな経験だ。おもしろいもの、素晴らしいものは、こちらが待っていて、向こうから勝手にやって来てくれるわけじゃない。ぼくたちもまた、財宝を捜し出す旅に出なければならないのだ。

『歎異抄』は、人間の叡知の「すべて」が詰めこまれた宝の箱だった。けれども、その箱を開けるためには、ちょっとした旅が必要だった。

 まず、それは「宗教」や「信仰」に関する本だということだ。そして、それは、いまのぼくたちにはわからない古いことばで書かれているということだ。

 でも、ぼくにはわかっていた。「宗教」や「信仰」という形はしているけれど、そこで扱われているのは、これまでも、これからもずっと、ぼくたちがいちばん大切にしている、人間の「精神」の問題だということを。そして、その、一見古めかしいことばの下には、いまのぼくたちが使うのとまったく同じことばが隠れていることを。

「宗教」を信じられない、「信仰」というものを持たないぼくだからこそ、『歎異抄』を「翻訳」することができる資格があるのだ。ぼくはそう思った。そして、ぼくが想像していた通り、『歎異抄』という秘められた宝箱の中には、いまのぼくたちがもっとも必要としているものが詰めこまれていたのだった。そんなふうに読んでもらえるなら、ぼくは嬉しい。

 最後に一つ。『歎異抄』という宝箱に隠されていたもの。それは語り手の「ユイエン」の物語だ。『歎異抄』の中心にあるのは、いうまでもなく「シンラン」のことばだ。けれども、その影には、「師」へ「至上の愛」を捧げた「弟子」の物語が隠されていたように思う。それも読んでもらえるなら、ぼくはもっと嬉しい。

暮らしとモノ班 for promotion
大人のリカちゃん遊び「リカ活」が人気!ついにポージング自由自在なモデルも