『一億三千万人のための「歎異抄」』
朝日新書より発売中
浦沢直樹原作のアニメ「PLUTO」の配信が始まった。約1時間のものが8本、超大作だ。そのスケールの大きさ故に、テレビ会社では制作できず、世界に配信できるネットフリックスの資本によって制作されたといわれている。実はこの作品、手塚治虫の名作『鉄腕アトム』の中の一エピソード「史上最大のロボットの巻」を長編化、というかリメイクしたものだ。十九歳になる長男に見るように勧めた。すると、長男は8本を一気に見て、「ものすごくおもしろかった! すごい!」といって興奮していた。
ロボットが人間たちの都合のまま争い合う悲劇を描いた手塚の原作が、およそ60年の後、AIが人間に限りなく近づこうとしている現在にみごとに蘇ったのだ。手塚の原作の中にあって古びない、おそらくは永遠に人びとに訴えつづけるなにかを、浦沢直樹は、いま現在を生きる人びとの切実な問題に変換してみせた。ぼくは、それこそが「翻訳」の意味だと思っている。
外国語で書かれたものを日本語に、古い日本語で書かれたものをいまの日本語に。ぼくはそんな「翻訳」をいくつかやってきた。考えていることはいつも同じだ。
こんなにも素晴らしいのに、いまのぼくたち、いまの読者には少しだけわかりにくい。作者といま目の前にいる読者の間にある、見えない「壁」、それを壊して、作者のことばをいまの読者に直接伝えたい。そのためにはどうすればいいのか。
『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』というアメリカの若い作家が書いた小説を「翻訳」したときには、注を一つもいれなかった。アメリカの読者はそんなものを必要とせず、ただ本文に向かい合うだろうから。もちろん、そのためにやらねばならないことはいくつもあった。
『論語』を「翻訳」したときには、孔子を「センセイ」と呼ぶことにし、その「センセイ」には彼が生きた時代と現代を往還してもらうことにした。古い本の中で奉られている人ではなく、いま生きているぼくたちにこそ必要な「センセイ」になってもらいたかったから。
そして『歎異抄』だ。『歎異抄』はぼくにとって、とても大切な本だった。そこには、いま書かれている本のほとんどよりもずっと、いま読むべきことが書かれている。ぼくはそう思った。いま書かれている本の大半は、書かれた瞬間から古びて消えてゆく。けれど、不思議なことに、ずっと昔に書かれたものなのに、まるでいま書かれたように新鮮な本があるのだ。