しらね・まいこ/1986年生まれ、東京都出身。大学卒業後、銀行に就職。退職後、日本とイギリスで修士課程修了。軽井沢にある全寮制のインターナショナルスクール「UWC ISAK Japan」勤務を経て2016年に国境なき医師団に入り、人道支援に携わる。「17歳で父を亡くし、母と姉妹に支えられてきた」と話す (撮影/写真映像部・佐藤創紀)
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 イスラエル軍とイスラム組織ハマスとの衝突から1カ月が経った。11月9日には、イスラエル軍はパレスチナ自治区ガザ地区北部で1日4時間、戦闘を休止すると米国政府が発表したが、「停戦」ではなく、いまだ収束が見えない。

【写真】11月10日、空爆があったとされるアル・シファ病院

 国際医療組織「国境なき医師団」の人事マネジャーとして、ガザ地区北部にある現地の事務所で勤務していた白根麻衣子さん(36)が11月5日、日本に帰国し、避難生活の詳細やガザの人々の置かれた厳しい状況を語った。(インタビューは11月7日に実施)

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 10月7日に最初の大きな空爆があって以降、それまでの生活が一変したという。

「10月7日は土曜日で仕事もお休みでした。午前6時半頃、ミサイルの爆発する音で目を覚ましました。何が起きたんだろうと思ってベランダに出てみると、まだ日が昇る前の薄暗い空に、無数に飛び交うミサイルの光が見えました。私は2018年から19年にかけて6カ月間、ガザ地区で活動したことがあり、ミサイルを見たこともありましたが、今回は全く規模が違い、普通の状況ではないことはすぐにわかりました。

 私の家は国境なき医師団が借り上げている建物内にあり、地下室に同僚たちとともに退避しました。だだっ広い倉庫のような場所です。昼夜問わず空爆が続くので、私を含む外国人派遣スタッフは地下室から一歩も出られず、オフィスに行くこともできず、通常の業務は一切できなくなりました。病院や診療所での活動は通常通りではありませんが、パレスチナ人スタッフによって今も続けられています」

 13日、比較的安全だとされたガザ南部の退避施設に移ることになった。

「荷物はリュックひとつだけで国境なき医師団の車に乗り込みました。移動距離は30キロほどです。家を失って街をさまよっていたり、車などの交通手段がなく逃げることができなかったりする人が大勢いる中で、私たちは南へ逃げるわけです。車を追いかけてくる人たちもいて、胸が張り裂ける思いでした」

30度の暑さのなか野宿

 ガザ南部での避難生活も過酷なものだったという。

「南部ではいったん施設に入りましたが、さらに移動しなければならなくなり、着いたところは、屋根も何もない更地の駐車場でした。30度を超える暑さの中、廃材のビニールで日よけを作ったり、車の陰にみんなで座ったりしながら野宿するしかありませんでした。

 空襲警報が鳴ればいいのですが、それは全くないので、ドーンという音が聞こえたり、空に無数のミサイルが飛ぶのを見たり、爆音とともに地面が揺れたりすることで空爆を知るという状況でした。南部も決して安全な場所ではありませんでした」

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古田真梨子

古田真梨子

AERA記者。朝日新聞社入社後、福島→横浜→東京社会部→週刊朝日編集部を経て現職。 途中、休職して南インド・ベンガル―ルに渡り、家族とともに3年半を過ごしました。 京都出身。中高保健体育教員免許。2児の子育て中。

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戦争にもルールがあるはずなのに