「日産自動車を金太郎飴にしたくない」が、近年の口癖だ。同じ顔、同じ答えでは、差別化で世界に優位性を出すのが難しいし、会社も面白くなくなると思うからだ(撮影/山中蔵人)

 家を出て左へ歩き、大きな通りを左へ曲がると、ISKLへ向かう。子どもの足で約15分。途中の高台に住宅地があり、そこから外国人の生徒が下りてきて合流していた。米国のIT企業や石油会社などの駐在員の子どもが中心で、一緒にカウボーイハットをかぶって遊んだ。

 でも、楽しい思い出ばかりではない。つらかったのが、学校に入るまで英語漬け。入学してからも、しばらく英語の辞書を持ち歩いた。みんなが話す英語が速くて、分からない単語が出てくると、誰かに辞書を引いてもらい教わった。振り返ると、それが、異文化へ順応していこう、という覚悟をくれた。

 再び車に乗って、通学路を進み、ISKLのあった地へ向かう。着くと、学校は移転して別の学校が使っていたが、門や校舎は記憶に残る風景のまま。高校2年生が終わるころまで、ここへ通った。

 校舎の中を抜けると、外廊下へ出る。目前に、大きなグラウンドが広がった。異文化との間にあった壁を崩してくれたのが、ここでやったアメリカンフットボールだ。中学3年生のジュニアチームから始め、帰国するまで楽しんだ。「いやあ、ここも変わらないな」。うれしそうな口調が、再び出た。

アメフトを始めて好プレーで得た敬意 できていく「居場所」

 なかなか友だちができず、何をすればいいかと考えて、校内の花形だったアメフトを選んでみた。ルールも知らないところから始めても、身長184センチの体格を生かした動きが評価され、レギュラー選手にしてくれた。いいプレーをすると多くの生徒から敬意が示され、学校に「居場所」ができていく。やはり、スポーツに国境はない。

 アメフトのシーズン以外は、水泳が得意だったので、ISKLのプールで監視員のアルバイトをした。すると、体格に目を付けられ、水球と水泳のクラブに誘われる。グラウンドがみえる外廊下をさらに進むと、そのプールがあった。ここも、異文化への適合力をくれた場所だ。

 東京・城南地区で生まれ、小学校1年生のときにカイロへいったときは、5年生まで日本人学校へ通った。自宅や学校は日本語でいいから、楽だった。でも、ひとたび街へ出ると、アラビア語に包まれる。カイロとクアラルンプールの間に出会ったもう一つの異文化が、関西弁の世界。父が大阪府へ異動したのに伴い、吹田市で1学年に10学級もあるマンモス校へ入って、未知の言語に囲まれた。どちらの苦労も、クアラルンプールのときほどではない。異文化への順応の、助走だった。

 2003年10月、総合商社の日商岩井(現・双日)から日産自動車へ転じたときも、あまりに異なる企業文化に驚いた。だが、ここでも順応を図り、自動車マンへと変身した。入社の際に「自分の長所と短所は?」と聞かれ、「長所は様々な環境に順応できる力だ」と応じた。

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