アメフトの試合で毎月シンガポールへいき、帰りに空港で買ったマレーシアにはないアイスクリーム。母と姉妹が大喜びで、自分もうれしかった(撮影/山中蔵人)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2023年11月13日号では、前号に引き続き日産自動車・内田誠社長兼CEOが登場し、「源流」となるマレーシア・クアラルンプールなどを訪れた。

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 マレーシアの首都クアラルンプール。いま、グローバル企業のトップに立ち、日々、世界中の異なる文化や価値観との順応と融合を求められる。その適合力を付けさせてくれたのが、赤道直下から近い、多様な人々が暮らすこの街だ。

 航空会社に勤めていた父の転勤で1980年の初夏、中学2年生の初めに大阪府からきた。父は、日本人学校でも現地校でもなく、駐在している外国人の子どもたちが通うクアラルンプールのインターナショナルスクール(ISKL)へいけ、と決めた。「これからはグローバル化の時代。英語を身につけ、様々な国の人と付き合ったほうがいい」。いま思えば、この父の判断に、ただ感謝しかない。

 でも、たいへんだった。ISKLは「英語の力が足りない」と言って、すぐには入れてくれない。父がみつけてきた家庭教師が自宅へきて、英語漬けが続く。学校に入るまでに8カ月。ようやく入学許可が出て、1学年下の学級へ入った。

 ことし8月、クアラルンプールで旧宅やISKLなどを、連載の企画で一緒に訪ねた。

 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。

変わっていない旧宅白い鉄製のベランダ 2階の左端が自室だ

 内田誠さんは、ビジネスパーソンとしての『源流』となったのは、クアラルンプールでの日々だ、と言う。

 再訪で、中心街から車で北東へ向かった。道すがら、車窓からみる街の様子に「全く、違う。道路が広がり、家が増えました」とつぶやく。もう少しいくと「あっ、あそこは昼飯にいった食堂だ」と、うれしそうに言った。やがて、自宅があったアンパンジャヤ地区へきた。「記憶が正しければ、あのへんだ。そう、あのベランダが白い家。鉄製のベランダがあった。懐かしいなあ」

 しばらく、沈黙した。たくさんのことが、頭の中に、一気に噴き出したのだろう。車を降りて、2階建ての家をみつめる。庭が左側にあり、裏へ回れるようになっていた。2階の一番右が両親の部屋で、左から二つ目が妹、自分は左の端だった。門の右のあたりから、よく蛇が出てきた──思い出話が続く。

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