1980年代から90年代にかけて若者だった世代とちがい、現代の二十代は「本当の自分」に強くこだわりません。このため、ファッションや読んでいる雑誌の傾向で、青年層を分類することが難しくなっています。ふだんはコンサバ系の恰好をしているのに、ときどき思いついてゴスロリを着る――そういうライフスタイルが、「当たりまえ」になりつつあります。彼らにとっては、「いろいろな自分」にその時どきで変わるのが「自然体」なのです。
「自然体」だが「ありのまま」ではない――「異端」だったアイドル時代の小泉今日子は、現代の若者の先駆けといえます。若き日の小泉今日子が何をしようとしていたのか。その真相は、「自然体」と「ありのまま」の区別が見えやすくなった今になって、始めて見えてくるのかもしれません。
■小泉今日子に見る「才能」の意味
小泉今日子は、変化をくり返すことで活躍の幅を広げてきた人です。デビュー直後の「松田聖子のレプリカ」のような「1.5流アイドル」から、アバンギャルドな超一流アイドルへ。1990年代には「サブカル女王」になり、永瀬正敏との結婚後は、本格的な「映画女優」の道を歩みはじめます。世紀の変わり目ごろからは、小劇場系の舞台にも進出。文筆家としての実力も、今では「芸能人の余芸」の域を超えています。
こんな風に変わりつづけることができる理由は、もちろんひとつではないでしょう。確実にいえるのは、「本当の自分」に執着していては、小泉今日子のように「脱皮」を遂げられないということです。
先日、私より三つ年上の女性――1964年生まれ――がいっていました。
<小泉今日子は素敵だとは思うけど、あんな風になりたがっている女のひとは、私のまわりにぜんぜんいない>
私と同じ年の女性が、こんなことを口にするのを耳にしたこともあります。
<アイドル時代の小泉今日子には、無理してる感じがしてあまり惹かれなかった。私は断然、松田聖子が好き>