バブル時代に青春をおくった女性の多くは、今でも「本当の自分」を承認されることへのこだわりを持っています。「本当の自分」を放棄して活路をひらく小泉今日子のやりかたは、彼女たちにしてみれば「邪道」なのでしょう。
私自身、男性でありながら、かつては「本当の自分」信仰に取りつかれていました。「生来の輝かしい資質」がないことで劣等感の塊になり、だからといって努力して何かをなしとげる気にもなれませんでした。天分の不足を刻苦勉励で補うのは、とてつもなく「しょぼいこと」に思えたのです。
そういう私には、「本当の自分」をゆるぎなく持っている斉藤由貴のほうが、小泉今日子より「天才」に見えました。これは、私だけの印象ではなかったと思います。小説家の村上龍は、斉藤由貴の「詩集」の帯に宣伝文句を寄せるなど、一時期熱心な「斉藤シンパ」でした。小泉今日子は「大衆文化」の語り手に好まれ、斉藤由貴は「ハイカルチャー志向」の論者にもてはやされる――そういう傾向が、バブル時代にはたしかにありました(現場をともにした演出家からは、久世光彦のような「芸術派」の人物も含め、小泉今日子は高く買われていたのですが)。
現在でも斉藤由貴は、着実に女優の仕事をつづけています。「演技をすること」は、おそらく彼女にとって天職だったのでしょう。そうした斉藤由貴と、「女優としての実績」だけを比較しても、近年の小泉今日子は見劣りしません。
通常は「時代と合致した資質の持ち主」が「才能ゆたか」と見なされます。しかし、世の中がどのように変化しても大丈夫なのは、「異端」でありながら居場所を確保できる人物です。時流にたくみに乗ることより、時流に乗りきらないまま生きのびる工夫の方が大切なのではないか。小泉今日子の歩みを見ていると、そんなことを考えさせられます。
時代の動きを無視して暮らすことは誰にとっても不可能です(そもそも無視しようとすることが有意義とは思えません)。ただし一方で、「今の世の中に対する違和感」をまったく覚えない人もいないはずです。そうした「違和感」から目をそらさないこと――じつはこれが「サバイバルの鍵」なのではないかと、私は最近感じています。
※助川幸逸郎氏の連載「小泉今日子になる方法」をまとめた『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』(朝日新書)が発売されました
注1 小泉今日子『原宿百景』(スウッチ・パブリッシング 2010)など
注2 富田薫「偶像(アイドル)崇拝はやめられない」(「キネマ旬報」1988年11月下旬号 キネマ旬報社)など
注3 「斉藤由貴 インタビュー」(「季刊 リュミエール」第六号 筑摩書房 1986)
注4 「小泉今日子インタビュー」(「キネマ旬報」1986年12月下旬号 キネマ旬報社)