杉山清貴&オメガトライブ、竹内まりや、稲垣潤一、菊池桃子……アラフィフの青春を彩った楽曲たちは今「シティ・ポップ」として世界中から注目を浴びている。「シティ・ポップ」を代表する作曲家といえば、“林哲司”をおいて他にはいない。作曲家デビュー50周年を記念したコンサートが開催されるのを前に「シティ・ポップ」流行への思い、アーティスト達との邂逅、ヒット曲連発の裏側など、50年の作曲家人生を振り返ってもらった。

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作曲家・林哲司さん/撮影・山形赳之
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「シティ・ポップ」が世界を席巻中

――1980年代、日本のポップシーンの中心だった林哲司さんの楽曲が今「シティ・ポップ」として世界中の注目を集めています。

「シティ・ポップ」については、本当にたくさんの人たちが分析し、総括し、語っていて様々な意見があるので、僕がいまさらあれこれ言うことはないんです。でもどの意見にも一理あって、海外では単にシティ・ポップ=80年代の日本の都会的な曲で総称されているのに、日本では複合的な意味合いでブームが起きていると感じています。個人的には「アメリカ人には出せなかった日本人の機微」「洋楽と邦楽、両方の要素」といった面が、改めて今、評価されているように感じます。

――林さんがシンガー・ソングライターとして活動しはじめた50年前と今では、日本の音楽シーンもかなり違ったのではないでしょうか。

 70年代、日本の音楽界は「ザ・歌謡曲」的なドメスティックな世界。だからこそ80年代の音楽関係者には「歌謡曲とは違うものを作っていきたい」という熱い思いがみなぎっていました。アメリカを向いて、アメリカを目指して、洋楽をどんどん吸収していった時代でもありましたね。ただ単純にそれを作風として表現しても日本ではヒットにならない。それまでの歌謡曲でもなく、洋楽でもない。アメリカ人では出せなかった「日本人の機微、哀愁感」を自分は突き詰めたかった。洋食を日本人の口に合うようにアレンジする。それがオリジナルな一線を画す存在になっていったのかなと思います。

「シティ・ポップ」と括られることへの抵抗感

――今では「シティ・ポップ」といえば林さんの楽曲を指します。

 よくそう言われるんですが、正直、「シティ・ポップ=(イコール)林哲司」と言われた当初は戸惑いもありました。今でも「シティ・ポップ」と僕の音楽を一括りにされるのは音楽家としては抵抗感がありますね。「それだけじゃないぞ」と。映画音楽やテーマ音楽などのインストゥルメンタルの楽曲、バレエ音楽や邦楽合奏曲なども作曲してきましたから。「海外で大ヒットしている」と言われても、不思議な現象という戸惑いが先行して、「やってやった」感はまったくない。考えてもみてください。僕が作曲してから40年も経っているんです。自国でのリバイバルヒットならまだ理解できますが、海外で、どこで始まったか、起こったかもわからないまま、「数字が凄いよ」「2億2000万回の再生回数だよ」と言われても……「誰が聞いているんだ?」という感じです。自分から発信した結果を知るには40年は長すぎます(笑)。

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洋楽と歌謡曲の狭間で