オリックス時代の金田政彦(OP写真通信社)
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 高橋宏斗柳裕也ら投手陣が打線の援護を得られず、“ムエンゴ”の呼称もすっかり定着した今季の中日だが、好投すれども報われなかった投手がシーズン後の年俸査定でどんな評価を受けるかも気になるところだ。過去のムエンゴ投手たちの例を振り返ってみよう(金額はいずれも推定)。

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 1988年に防御率2.87を記録しながら、打線の援護に恵まれず、9勝16敗と大きく負け越し、3年連続リーグ最多敗戦に泣いたのが、ヤクルトのエース・尾花高夫だ。

 同年の尾花は4月8日の巨人戦で開幕投手を務め、6回2失点で東京ドームのプロ野球公式戦の勝利投手第1号となった。

 だが、その後は2失点以下の敗戦が両リーグトップの9(1失点3、2失点6)を記録するなど、勝利の女神はなかなか微笑まず、8月21日に阪神を1対0で完封して9勝目を挙げたのを最後に、7連敗でシーズンを終えた。

 1980年代のヤクルトは10年間で最下位4度、Aクラスは1度だけという低迷期で、尾花は82年にも防御率は2.60ながら、12勝16敗の負け越しと割りを食っている。

 ちなみに88年のヤクルトは、伊東昭光が登板55試合すべてリリーフで18勝を挙げ、リーグ最多勝を獲得。同一チームの投手が最多勝と最多敗戦で明暗を分けるという皮肉な結果に……。

 そして、同年オフの契約更改で、尾花は3540万円から27パーセントアップの4500万円でサイン。ムエンゴの分も多少は評価されたようだが、4年連続二桁勝利をマークするなど、長年エースとしてチームに貢献してきた投手に対する評価としては、けっして高くはない。

 当時の尾花も「球界の年俸ベスト10などを見て、投手が何人いるのか?おそらく、北別府(学=広島。7200万円で4位)ぐらいでしょ。投手陣全体の評価が低過ぎるね。僕も契約更改の席ではっきり球団に言いましたよ。査定法を見直してくれるようにね。もちろん口にした手前、昨年以上の成績を残して、地位向上に貢献したいと思っています」(週刊ベースボール89年1月16日号)と語っている。

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ムエンゴながらタイトルを獲得したオリックス左腕