私たちが生活の一部として日々利用している「道路」。「すべての道はローマに通ず」ということわざもあるように、その歴史は古く、古代ローマや秦の始皇帝の時代においてすでに巨大な道路交通網が存在していたことは知られるところです。



 一方、日本における、道路についての最初の文書記録は、魏からの使いが日本にやってきて最初に抱いた印象を記録した『魏志倭人伝』にみられる、「土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の径の如し」という記述。



 本書『道路の日本史』の著者・武部健一さんは、この一文において注目すべき点が三つあるといいます。



 日本の領域である対馬国(現長崎県対馬市)に魏使がはじめて上陸したときの印象を記した、この一文。注目すべき一点目は、これが日本の道路についてのはじめての同時代記録であるということ。二点目は、現在私たちが使っている「道路」という言葉が、すでに見受けられるということ。そして三点目として、この『魏志倭人伝』を記した魏の国からの使いの目には、対馬の道路が「禽鹿(きんろく)の径(みち)の如し」という状態、つまり手つかずの自然に近い、けもの道のように見えていたのだという点を武部さんは指摘します。



 本書では、この「土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の径の如し」という状態にはじまった日本の道路が、古代駅路から現在の高速道路にいたるまで、いかなる歴史を辿ってきたのか詳細な分析がなされていきます。



 道路の歩みを辿っていくなかで武部さんは、「国がしっかりしている時代は、道路網もまた強固である」ということに気がついたそうです。道路の背後には国家という存在があり、道路はその国の歴史を反映しているのだといいます。



「古代律令国家の駅路整備から、鎌倉幕府による『鎌倉街道』のネットワーク、織田信長の幅三間半の公道規格、江戸幕府の五街道整備など、政治的な時代区分と対比させると分かりやすい。道路の制度も実態も、政治的な節目で変わってくるのがはっきりしている。なぜなら、道路は人間の歴史とともに歩んできたが、それを造るのは個々の人びとではなく、小は集落の単位組織から大は一国の政府まで、一連の社会的なつながりによって造られ、守られてきたからである」



 有事の際の迅速な情報連絡、軍隊の移動、公用役人の輸送、都への貢納物の輸送といった、さまざまな目的から造られ整備されてきた、長い道路の歴史。道路史という視点から改めて日本を見つめ直してみることで、より一層日本通史への理解も深まるのではないでしょうか。