副題は「ヘイトスピーチのある日常から考える」。好井裕明『差別の現在』はきわめて今日的な差別論だ。
 ヘイトスピーチは〈「表現の自由」の領域から確実に逸脱している実践〉で、〈法的規制はできるだけ急ぐべき政治的案件だ〉というのが著者の基本的な立場である。しかし、では法的に規制すれば差別やヘイトスピーチはなくなるのか。
 スマホと差別の関係を考察したくだりが「なるほど」だった。
 電車の乗客の8割近くがスマホを見ているような昨今。彼らは電車を待っているが、スマホを手にすることで〈“電車を待つ”という現実に多くの「孔」があき、そこから別の多様な現実が流れ込み、彼らはその情報をもとに、自分が今生きている現実の意味を書き換えてしまう〉。わかるかな。つまり彼らは〈常に新たな「情報」に触れていないと落ちつかないし、「情報」を媒介とした他者との交信しか、もっぱら念頭にない〉。それは自分の周りにいる人が見えていないに等しく、必然的に他者への敬意や想像力を減退させる。差別とはそんな想像力の欠落から来るんじゃないかと。
 在日、障害者、女性、性的マイノリティ。都議会のセクハラ野次から新聞記事や娯楽映画まで、多様な例を引きながら、差別にとことん向き合うことで、むしろ得られる「豊かさ」について考えさせられる。
 ときおり挟まる一撃が痛快だ。なぜ大河ドラマには被差別の現実を生きた人物が主人公にならないのか、とかね。〈水平社宣言は、フランス革命の人権宣言に匹敵する意義ある歴史的事実〉なのに〈水平社運動をつくりあげてきた中心人物である松本治一郎という偉人の生涯はテーマにならないのだろうか〉。
 便所の差別的な落書きなどに比べると〈ヘイトスピーチには、こうした暗さが欠けているように思える〉。そうだよね。せめて後ろめたさを感じてくれよ。巻末の推薦映画ガイドも秀逸。ありがちな論議にやんわりジャブを食らわす好著である。

週刊朝日 2015年5月22日号

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