16歳のときのMIOさん(画像=本人提供)

「仕事を通じて出会った芸術家の人たちが、私の考え方の変な部分を全部認めてくれたんです。自分の内なるものに耳を澄ませて爆発させる、彼らの創作活動を間近で見るなかで、『私も、自分の心を育てたい』と思うようになりました」

 感情よりも合理性を重視するあまり、他者の間違いを指摘したり(正しいことを伝えるほうが、相手にとっても有益だと思っていた)、ときには論破してしまっていたMIOさんの心に変化が生じた日々だった。

 そして、思い出したのが、小学生のころからしていたボランティアの活動だった。

「とにかく寂しい子ども時代だったので、愛情を求めて児童福祉施設や老人福祉施設に行っていたのですが、そこですごく喜んでもらえていたことを思い出したんです。『私がお金をもらわなくてもやっていたことってなんだろう』と考えた結果、『福祉の施設を作りたい』という夢を持ちました」

 そうして、24歳で慶應義塾大学の看護医療学部に入学。ただ、悩んだ末に入った看護の世界は、彼女にとって、想像以上に過酷なものだった。

「患者さん一人一人に向き合って、その人生を追体験して……ということを繰り返すうちに、相手に感情移入しすぎるようになってしまったんです。ずっと泣いているものだから、先生から『あなたが病室に入ると患者さんは自分が死ぬのかと思っちゃうから、入らないでね』と言われるまでになってしまいました。医療の現場は悲しいことの連続です。心が動じないようにしないと、自分が壊れてしまう。だから慣れるようになっていく……と先輩の看護師さんには言われていたのですが、私は違いました。子どものころは『人間がわからない』だったのに、人生経験を重ねるなかで、逆に『わかりすぎるようになってしまっていた』んです。当時は、世の中で起きるすべてのことに感情移入している状態でした」

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