今川貞春の死去

 氏真が江戸に移住してから四ヶ月後の慶長十七年(一六一二)八月十九日に、妹の貞春尼が死去した。法名は嶺寒院殿松誉貞春禅定尼(「北条家過去名簿」)、あるいは嶺松院殿栄誉貞春大姉(万昌院過去帳)といった。七一歳くらいであったと推定される。もしかしたら氏真の江戸への移住は、貞春尼の病状が悪化したなどの連絡があったためかもしれない。妹の最期を看取るため、江戸に下ってきたということも考えられる。

 貞春尼は、最後まで、秀忠の上臈として存在していたとみなされる。秀忠が誕生して以来、三三年におよんで秀忠に奉公してきた。しかもそれは単なる奉公ではなく、女性家老として、また後見役として、秀忠を支えてきたのであった。そうして徳川家の奥向きにおいて重要な役割を担ってきたのであった。これは今川家の一員が、徳川家を支えていたことを意味する。この貞春尼の存在によって、徳川家と今川家はしっかりと結び付いていたのであった。この意味において、駿河没落後の今川家において、彼女こそが最も活躍した人物であったといっても過言ではなかろう。

 氏真は、彼女の最期を看取ったことであろう。そこでは、氏真妻の早川殿をはじめ、嫡孫範英、次男高久、娘婿の吉良義定とその家族たちも集ったことであろう。彼女がいたからこそ、ここにいたるまで氏真とその家族は存続できたとみることができる。いわば彼女は、その後の今川家の存続をもたらした、最大の功労者であったといいうるであろう。

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