家康は、慶長十一年まで伏見城で天下統治をおこなっていたが、同年九月に江戸城に移り、さらに同十二年に新たな天下統治のための本拠として駿府城を構築し、そこに移住していた。その間に京都に上洛したのは、同十六年三月から四月、後水尾天皇の即位式と羽柴秀頼との対面のためであった。もしかしたらその時に、氏真は数年ぶりに家康に対面し、そこで嫡孫範英の徳川家への出仕を申請したのかもしれない。またそれをうけて、家康は氏真に、江戸への移住をすすめた、ということも考えられるかもしれない。
氏真はおそらく、京都でしばしば家康・秀忠に対面できたであろうから、家康が伏見城に在城していた時までは、それなりに対面していたであろう。しかし家康が駿府城に移ってからは、それは叶わなくなっていた。そうであれば慶長十六年の家康の上洛の時に、五年ぶりの対面がおこなわれたことであろう。そうするとこの時の対面は、一年ぶりのことであったかもしれない。
その後、氏真が家康と対面したことを記す記録はみられていない。「駿府記」にもこの時のことしか記されていない。しかし同史料は、駿府での家康の動向のすべてを記しているわけではない。氏真が駿府に赴いてきて、家康に対面したことはあったかもしれない。また家康は、慶長十八年九月から同十九年正月まで、江戸城に滞在している。そのあいだに江戸に居住していた氏真と対面がなかったとはいえないであろう。
家康と氏真は、それぞれ駿府と江戸に居住するようになったことで、かつて家康が京都に居住していた時のように面談する機会は、少なくなっていたであろう。しかし家康と氏真は、最後まで交流を続けたことと思われる。