政宗は、最上氏へ援軍を派遣した一方で上杉領へ攻撃を開始している。上杉軍主力が最上領に釘付けとなっている隙を突いて上杉領の切り取りに動いたのである。九月二十五日に伊達軍は湯原(宮城県刈田郡)を攻略した。
当初、政宗自身も二十九日に出陣する予定であったが、二十七日になると進攻を止めて出陣を延期している。表向きの理由は、最上領での戦況を見守るためとしているが、片倉景綱(小十郎)に宛てた書状では「今少し、上方の様態をも聞き届け」と述べている(『片倉代々記』)。九月十五日の決戦(関ヶ原合戦)は東軍の完勝となったが、勝敗の報せはいまだ届いておらず、上方の戦況を見極めようとしていたのである。政宗の行動は、かなり計算高い。
一方、長谷堂城の戦況は膠着状態となっていた。上泉泰綱は書状で「(長谷堂城には)兵が多く籠もっており、戦い方も手堅く見える」と述べている。
九月二十九日亥の刻(午後十時頃)付で兼続は、景勝の側近・清野長範に宛てて、同日申の刻(午後四時頃)に最上軍の急襲を受けたが押し崩したと述べている(『上杉家御年譜』)。
最上軍の完全勝利
九月三十日亥の刻(午後十時頃)、政宗のもとに家康から関ヶ原合戦の勝報がもたらされる。政宗はこれを伊達政景ら家臣や、最上義光に報じた。
一方、兼続ら上杉軍は翌日(十月一日)に突如撤退を開始する。通説では、関ヶ原合戦の結果が届いたためといわれているが、当時の史料からは(撤退時に)上杉氏が決戦の敗北を把握している様子は確認できず、詳細は不明である。
撤退する上杉軍を最上・伊達軍が追撃し、午の刻から酉の刻(正午頃から午後六時頃)にかけて約六時間の猛攻を加えた。『上杉家御年譜』には、殿の前田利益(慶次郎)と水原親憲が奮戦して敵を食い止めた活躍が記されている。この日、兼続は畑谷城まで退いている。こうして長谷堂城の戦いは終結した。
この追撃戦について、政宗は十月三日付で家臣・桑折宗長に宛てて、伊達軍は八十余を討ち取る戦果を挙げたが、最上軍が弱かったため、全滅させることはできなかったと述べている(「伊達家文書」)。
なお、長谷堂城の戦いで上泉泰綱が戦死している。『鶏肋編(吉田藤右衛門覚書)』では九月二十九日、『関原軍記大成』や『会津陣物語』では九月二十四日の戦闘で戦死したとされているが、詳しいことは分からない。
上杉軍の撤退にあたって、谷地城に在番していた下秀久は、撤退命令が届かずに取り残されてしまう。谷地城を囲まれた秀久は、最上氏に降伏する。最上義光は、下秀久を先鋒として上杉領の庄内に出兵し、翌年四月に庄内全域を制圧した。
長谷堂城の戦いは、関ヶ原合戦の結果が届くまで城に籠もって応戦した最上軍の粘り勝ちと語られることが多い。しかし、史料からみると違ったイメージが浮かび上がる。
まず、上泉泰綱は書状で「兵が多く籠もっており、戦い方も手堅く見える」と述べているように、他の支城を放棄して長谷堂城と上山城に十分な兵力を入れた点が効いている。
そして、上杉側が書状で「押し返し」「押し崩し」と表現しているように、上杉軍の陣地が攻撃を受けて、なんとか持ち堪えるという場面が複数みられる。
上杉軍が長谷堂城から撤退した理由については不明であるが、関ヶ原合戦の敗報にかかわらず、既に上杉軍の最上領侵攻は手詰まりとなっていた。そして、最終的に最上氏に庄内を奪われる結果となった。「北の関ヶ原」は最上氏の完全勝利といえるだろう。