徳川家の覇権を確立した「関ケ原合戦」。しかし、同時期に奥羽(東北)でも、徳川家康方(東軍)の最上義光と、石田三成方(西軍)の上杉景勝の老家臣・直江兼続が激戦を繰り広げていた。「北の関ケ原」と呼ばれる激しい攻防を、朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第十二章 著:水野伍貴)から一部抜粋、再編集して紹介する。
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上杉氏の関東侵攻計画
直江兼続は最上領へ侵攻するために慶長五年(一六〇〇年)九月三日、米沢城(山形県米沢市)に入った。同日付けで最上領侵攻にあたっての軍法も出されている(「上杉家文書」)。
この頃、伊達政宗との間に和睦の話が浮上しており、兼続は九月三日付で上杉家臣・本庄繁長に宛てた書状において、白石城を奪われたことは水に流して公儀のために政宗との和睦を調えてほしいと述べている(「本庄家文書」)。同書状には、上杉軍が徳川氏の領国である関東へ攻め入る際に伊達氏から三〇〇〇~五〇〇〇の軍勢を徴発する計画があったことや、最上義光も和睦を求めていたことが記されている。
関東への侵攻計画については、八月二十五日付で上杉景勝が二大老・四奉行へ宛てた書状に詳しく記されており、(1)今は最上氏と伊達氏が敵対行動をとっているため、これらの解決に当たっていること、(2)しかし、家康が西上した場合は、佐竹義宣と連携して関東に侵攻すること、(3)九月中には関東侵攻をおこなうことが述べられている。
関東侵攻計画は、八月の時点で既に存在していた。しかし、家康は関東に留まっており、北では最上氏と伊達氏が敵対行動をとっていたため、実行できるものではなかった。しかし、家康が江戸を離れてパワーバランスが崩壊したことで、背後を脅かす懼れのある最上氏と伊達氏への対処に専念できるようになった。
上杉氏が最初の攻撃対象として選んだのは最上氏であり、兼続が本庄繁長に伊達政宗との和睦を調えるように求めたのには、政宗の動きを封じて最上氏を孤立させる狙いがあった。