上杉軍の猛進撃をうけて、最上軍は簗沢城(東村山郡山辺町)、八ツ沼城(西村山郡朝日町)、鳥屋ヶ森城(西村山郡朝日町)、白岩城(寒河江市白岩)、延沢城(尾花沢市)、山野辺城(東村山郡山辺町)、谷地城(西村山郡河北町)、若木城(山形市若木)、長崎城(東村山郡中山町)、寒河江城(寒河江市丸内)を放棄している。上杉軍は瞬く間に最上領を席巻したが、上山城攻めでは苦戦を強いられており、十七日に最上軍の里見民部の急襲を受けて本村親盛が戦死している。
伊達政宗の援軍
九月十五日、上杉軍が長谷堂城へ攻撃を開始している。兼続は長谷堂城から北方一キロメートルの菅沢山に布陣した。一方、長谷堂城には最上義光が派遣した援軍を含め四五〇〇の最上軍が籠もった。
上杉家臣・上泉泰綱の九月十八日付の書状によると、長谷堂城の戦いが始まった十五日、山形から援軍として駆け付けた最上軍が上杉軍を急襲しており、上杉軍の水原親憲が最上軍を押し返したという(「小山田文書」)。
一方、最上家臣・鮭延秀綱の話をまとめた『鮭延越前守聞書』によると、鮭延秀綱は三千余の援軍を率いて、攻城する上杉軍の側面を突いて打撃を与え、城内の志村光安とともに追撃して兼続の本陣近くまで攻め込み、多くの上杉兵を討ち取ったという。
さらに二十二日になると、伊達政宗からの援軍として伊達(留守)政景率いる伊達軍が小白川(山形市小白川町)に到着し、二十四日には、菅沢山から北に四キロメートルの沼木(山形市沼木)に布陣した。
伊達軍が最上氏の援軍として駆け付けたのは、最上義光が政宗に援軍を求めたことによる。九月十五日、義光の嫡男・義康は、政宗のもとへ赴き、援軍を求めた。翌十六日、援軍派遣を決めた政宗は義光に宛てた書状で、上杉氏と南部氏に不穏な動きがあるため、政宗自身の出陣は延引するが、代わりに伊達政景を救援に向かわせると述べている(「伊達家文書」)。この時をもって、上杉氏と伊達氏の和睦は破られた。