一方、パワーバランスの崩壊によって危機感を覚えた最上義光と伊達政宗は、上杉氏に恭順する姿勢を示し始めた。九月四日付で兼続が上杉家臣・甘糟景継へ宛てた書状には、義光が和睦を懇望してきたため、最上領への侵攻を延期したとある。そして、二、三日で(和睦するか否か)はっきりさせるとしている(「米沢図書館所蔵文書」)。

 しかし、この時期の伊達政宗の動向を見る限り、本気で上杉氏に恭順しようとしていたとは思えない(水野:二〇一八)。政宗のもとには、美濃国における東軍の快進撃の報せがもたらされており、家康が上方を平定するまで少しでも時間を稼ぎたいという内心から来た方便であろう。最上義光も同様であったと思われる。

上杉軍の猛攻

 最上義光からの恭順の申し入れは、姿勢のみで実体が伴っていなかったのであろう。上杉氏は最上領侵攻を決定し、九月八日、侵攻を開始した。関東侵攻計画があったことを踏まえると、目的は最上領の征服ではなく、最上義光を降伏させて上杉氏に従わせることにあったと思われる。

 上杉軍は、米沢方面と庄内(山形県酒田市・鶴岡市)方面から挟む形で最上領へ侵攻した。米沢方面の上杉軍は、兼続が率いる約二万の主力と、横田旨俊・本村親盛らの約四〇〇〇に分かれ、庄内方面からは志駄義秀・下秀久(吉忠)ら約三〇〇〇が攻め込んだ。一方、最上軍は兵の分散を避けて、戦力を山形城、長谷堂城、上山城の三つに集中させる作戦をとった。

 兼続が率いる主力は、九日に米沢城を出陣し、狐越街道を通って、上杉領と最上領の境界に位置する畑谷城(山形県東村山郡山辺町)に迫った。

 十二日、兼続率いる上杉軍は、畑谷城への攻撃を開始した。畑谷城には江口光清ら五〇〇の最上軍が籠もって奮戦したが、衆寡敵せず翌十三日に落城した。

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伊達政宗の援軍