様々な見方はあるが、熊本さんは、裁判官としてどうあるべきかという以前に、人として自らの過ちに恐れ慄き、全てを忘れようともがき続けていたのではなかろうか。多くの裁判官は、合議で自分の考えが通らなかったことを、自らの過ちとは考えずに、評議を尽くした結果なのだから致し方なしと割り切ろうとするのではないか。そもそも無罪を書いても、上級審で覆されることは珍しくない。しかし、熊本さんは自らを責めた。死刑事件という重さもあったに違いない。そして、ついに評議の秘密を公表し、袴田さんの無罪を訴え、本人に会って謝罪することを望んだ。
熊本さんは、裁判官として考えれば弱い人間だったのかもしれない。しかし、無実の人に死刑判決を書いてしまった過ちを、誰が、どのように克服できるというのか。よほど傲慢な人間か、事実を見て見ぬふりができる人間でなければ、できるはずがない。責められるべきは、誤判を繰り返し、再審にも応じない裁判所という組織のはずだ。
そして、裁判員裁判の今、人が人を裁くことの過酷さを、もはや他人ごととしておくことはできない。冤罪は必ず起きる。だからこそ、再審請求において、「全面的証拠開示」と「検察官の不服申立て禁止」という法改正を実現し、裁判のやり直しが速やかに行われるようにしなければならない。私たちは「無実の人を罰してはならない」のだから。