今や世界が注目する田中監督だが、商業映画監督デビューは40歳を過ぎてからと遅咲きであり、それまでの道のりも決して平坦ではなかった。
幼少期には、2歳の時に両親がいなくなった。当時、両親と住んでいた住まいは千葉県柏市にあった。同市内の少し離れた場所に祖父母の家があり、物心ついたころには、そこで新しい生活がスタートした。
「自分の宿命として受け入れるしかないという気持ちでしたが、ずっと『何か違う』という違和感はありました。祖父母は大正生まれなので、煮っ転がし、天ぷら、きんぴらゴボウ、たくあん、卵料理などレトロな食べ物が多かったですね。一番好物だったおかずはウナギのかば焼き。毎月2回くらい食卓に出してくれて、それが楽しみでした。祖父母はお金には困っていなかったようで、ご飯だけは普通においしいものを食べられました」
小学校の父兄参観日には祖父が来ていた。
「いつもじいちゃんでしたね。同級生から『また、田中のじいちゃんが1番乗りで早く来たー』とからかわれ、悲しいというよりも、恥ずかしかったです。いつもそうなので、諦めしかなかったですね」
祖父は第2次世界大戦のころ、旧満州国へ日本兵の騎馬隊として出兵していたという。
「満州中央の都市ハルビンやチチハルにいたそうです。戦争で左足ももを撃たれ、軍の病院で手当てをして、戦争が終わる少し前に日本に帰国したそうです。祖父は『あと2週間帰国が遅かったら危なかった。コロニー(収容所)に入れられ捕虜になる寸前だった。命拾いした』と言っていました。戦友たちが死んでいったので、自分の撃たれた左足の傷をさすりながらいつも泣いていましたね。その姿が強烈にまぶたの裏に焼きついています。他人にはやさしく、身内には厳しい人でした。一方で、祖母は母親代わりをしてくれました。日本海の北国生まれのやさしい人です。本当にマリアさまみたいでした」