かくしゃくとして厳しい祖父とやさしい祖母。だが、田中氏は中学1年生の2学期の初日に家出をした。

「生活に不自由はしてなくても、祖父母との生活には窮屈さを感じていました。お年玉やへそくりの隠し場所から集めた5万円を持って、千葉県の房総半島や西日本まで行きました。まだ暑かったので、公園や駅のベンチで寝ました。捜索願が出て、10日間くらいで家に引き戻されることになりました」

 帰宅し、再び学校へ行くと家出をしたことが全校に知れ渡っていた。

「戻ったら、先生は『見つかりました。みんなやさしくするように』『先生が親になろうか』なんて言っているし、同級生は妙にやさしかったですね」

 その後、茨城県の私立高校に進学。卒業後は東京の音響技術専門学校(現・音響芸術専門学校)へ進んだ。

「映像と音響の勉強をしました。学校のOBが講談社のグループ会社が発行していた雑誌『ベストモータリング』の技術を担当していて、私も編集部へ行きたくて、就職試験を受けて合格しました」

 その会社に1994年に入社。2年半の間、「ベストモータリング」編集部で働いた。しかし、海外で暮らしたいという願望が強くなり退社した。ニューヨークで就労ビザを取得し、ダンス、映像音楽、演技の勉強をした。

 約2年半の米国生活を終えると、田中氏はバックパッカーの旅に出る。ヨーロッパの国々やアラブ、パキスタンなどの中東、アジアの国々をまわった。

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映画監督への道が開けた32歳