当時で一試合50~70ドルのギャラをもらうために、レスラー数人で一台の車に乗り込んで、7、8時間かけて試合会場に行くなんてザラ。ガソリン代払ったり、途中で飯を食ったりで、ほとんど稼げない。それでも行かないと二度とブッキングしてもらえなくなるから、俺らはどんなに遠くても行くしかないんだよね。

 アメリカ時代はジリ貧で大変だったよ。なんせ、相撲時代は金に不自由しなかったからね。アメリカではとにかく金がないし、全日本プロレスは一切援助してくれなかった。全日に入団するときもジャイアント馬場さんから「天龍、悪いけど、支度金は出せない。大学から入団したジャンボ鶴田にも出していないから」と言われていて、それには俺も納得していたし、相撲を辞めるときにいろいろな人からもらった餞別でなんとか食いつないでいたもんだ。

 相撲協会を辞めるときも退職金が数百万円出たんだけど、プロレスに転向することを許さなかった親父に、金を見せれば納得すると思って全額預けたんだよね。今思えば銀行に預けて自分で管理すればよかったんだが。親父はその金をもらったもんだと思って、派手に使ってね……。

 さらに後になって知ったんだけど、馬場さんが実家まで足を運んで、俺のプロレス転向を認めてくれるように頼んでいて、親父は馬場さんからも数百万円引っ張っていたらしいんだ。その金も車や遊びにずいぶん使っていたようだが……。当時馬場さんはそんなこと一言も言わなかったし、ずいぶん後になって話してくれたんだけど、そりゃあ、そんだけ金を使っていたら、俺への支度金もアメリカの援助もないわけだ(苦笑)。

 アメリカでの修行も終わって日本に戻って来て、それでもプロレスで大変だったのは、お客さんやほかのレスラーにナメられないように「いかに天龍はすごいか」を見せつけることだ。下積みなしで、エリートとして入団したからには下手なことはできないというプレッシャーもあった。だから、人一倍トレーニングして、人一倍攻めたし、人一倍攻撃を受けたという自負はある。

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