この金剛のことは、後に「押尾川騒動」があって、俺は終生許さないと思っていた。ただ、後になって、俺がプロレスに転向して、レボリューションをやっていた頃に、同郷の大徹(現在・湊川)から「親方になった金剛が『俺が若いころ、天龍といつも三番稽古をやってキツかったんだよ』って話を若い衆に自慢している」と聞いて、なんだか妙に嬉しかったことを覚えている。
金剛もキツくて、俺と同じような思いだったんだなと分かると、終生許さないと思っていたヤツだけど、そのときはちょっと許してもいいかなと思った俺もいる。あの当時の金剛は相撲協会の事業部長かなんかの役職についていて、その金剛が俺のことで自慢しているってことが、俺には妙に嬉しかったんだ。
さて、兄弟子からの無茶な雑用も、十両に上がると一切なくなる。番付がモノを言う世界だからね。雑用が無くなって、昼寝もできるようになると、余裕が出てきて、このころにようやく体重が100キロを超えた。
それまでは92キロくらいで、昼寝をしたり、ゆっくり飯を食ったりする余裕がないと、体重を増やすこともできないんだ。同期の貴ノ花もやっぱり十両に上がるまでは90キロくらいで、十両に上がってから一気に大きくなったからね。勝つために体重を増やさなきゃいけないけど、体重を増やすためには勝って番付を上げなければならない、まさにサバイバルだ。
相撲は厳しいこともあったけど、13歳で相撲の世界に入って、相撲協会という器のデカいところに入れたと喜んでいたのが正直なところだ。総理大臣の秘書は秘書自身も偉いと思ってしまうのと同じだね。相撲協会にいる俺はすごいって(笑)。
それに、あのころは相撲取りだっていうだけで、いろいろと世間も寛容でね。10代のうちからおネエちゃんのいる店に連れていかれて、女性の口説き方を教えられたりね。時代というより、相撲界が特殊だったのかもね。
そんな相撲界からプロレスに転向したときも過酷だったよ。アメリカ修業時代は金がないから節約、節約で、ホットドッグを食うのにもこっちより、あっちの店の方が20セント安いからって、わざわざ車で買いに行ってたんだから。ガソリン代の方が高いだろうって(笑)。