1972年の日本復帰以降、米軍基地が押し付けられたままの沖縄。その沖縄を嘲り、差別し、冷たく突き放す「本土」があるとジャーナリストの安田浩一氏は指摘する。辺野古の米軍新基地建設に反対する「座り込み」に対して、少なくない者が「運動」そのものを嘲笑した。その詳細を安田氏が上梓した『なぜ市民は"座り込む"のか――基地の島・沖縄の実像、戦争の記憶』(朝日新聞出版)から一部を抜粋、再編集し紹介する。
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米軍の辺野古新基地は海底で見つかった軟弱地盤を改良しなければ完成することはないが、その見通しはまるで立っていない。実現性すら危ぶまれる新基地建設に、それでも政府は天井知らずのカネを注ぎ込む。いつ完成するのか、果たしてそれが本当に必要なのかもわからぬまま、惰性のように工事だけが進められる。
一方、工事車両の進入路となっている米軍キャンプ・シュワブのゲート前では、その日も多くの人々が座り込みを続けていた。新基地建設に反対する人々だ。連日、ここで抗議活動が続けられている。
埋め立てに使う土砂運搬用のトラックが近づくたびに、人々は路上に座り込む。工事の進捗を遅らせるための、体を張った抵抗だ。抗議行動の参加者の多くは高齢者である。沖縄戦の記憶が全身に刻印された世代だ。
基地建設に反対する声が響く。反対の意思を示したプラカードが掲げられる。
警告を繰り返していた警察官は、一定の時間を過ぎると「排除」に動いた。怒声が飛ぶ。悲鳴が上がる。警察官によって、座り込む人々の両手両足が持ち上げられ、じゃまな荷物を脇に放り投げるかのような「ごぼう抜き」が繰り返される。
なぜ、そこまでして基地建設反対の意思を示すのか。
もはや幾度も語られ、どれだけ手垢のついた言葉であろうとも、私は繰り返さなければならない。たかだか国土の0.6%の面積しか持たぬこの小さな島に、全国の米軍専用施設の7割が集中しているのだ。しかも戦争の記憶が残るこの島に。もう二度と島を戦場にしたくないと願う人々の気持ちが、戦争を引き起こすために機能する基地を忌避するのは当然ではないか。だから、これ以上基地を増やさないでくれと主張しているのだ。
これを揶揄する者がいる。抵抗する姿が滑稽だと笑う者がいる。基地反対など無駄だと突き放す者がいる。必死になってこぶしを振り上げる姿を茶化す者がいる。