要するに基地建設も、そこに反対することも、他人事なのだ。どちらに転んでも自分の身は痛まないし、手も汚れない。ただの傍観者でありながら、地域の苦悩を想像することもなく、基地を押し付けたままに、娯楽として辺野古を揶揄する。こうした者たちにとって辺野古はSNSの「ネタ」でしかない。いまも地方の保守系議員や有名ユーチューバーなどが、ひっきりなしに同地を訪ね、同じような「絵」をつくり、そして笑いながら辺野古を語る。

「自分事ではないからこそ、平気で人の傷口を広げるような行為ができるのですよね。いったい、何が楽しいのでしょう」

 座り込みの参加者のひとり(70代女性)は、いまにも泣きそうな表情で、そう訴えた。

 こうした“ひろゆき騒動”に、私は憤りと悲しみ以外のものを感じることはなかった。人を見下したような嘲笑が、真剣な怒りを無効化させる。ネット上でよく見ることのできる「w」(笑いを意味する記号)のカルチャーが現実社会に襲いかかる。

 あえて言いたい。

 私は悔しくて仕方ないのだ。

 人間の怒りを、腹の底から沸き立つような怒りを、笑いと脅しで無効化させようとする者たちを心底許せない。私はこうした「笑い」が嫌いでたまらない。とことん軽蔑する。当然じゃないか。切実な思いを知ったふうな理屈で小馬鹿にされて、落ち着いていられるわけがない。あらゆる理不尽に対して、人はときに、地の底から沸き上がるような怒りをぶつけることがあるのだ。そこに嘲笑で応じる傲慢さは、ただひたすらに腹立たしい。醜悪な「笑い」に、背中が強張るほどの憤りを感じる。

 歴史を変えてきたのは人の怒りじゃないか。

 あらゆる人権が、選挙権も女性の権利も働く者の権利も、激しい怒りによって獲得されたものだ。法律で定められた最低限の時給をもらえているのも、労働に休息が認められているのも、真剣に怒った人たちによって獲得された権利ではないか。1960年代の米国で公民権法を勝ち取ったのも、身を張って抗議した多くの人がいたからだ。笑われながら、暴力による弾圧を受けながら、それでも人々は闘うことで、怒りを表現することで世のなかを変えてきた。

 だから私は笑わない。それがどんなに滑稽に見えても、美しくなくとも、激しい怒りで巨大な権力に立ち向かっている人々を嘲笑しない。

 理不尽と闘ってきた人への、そして歴史と犠牲に対しての、敬意を忘れたくないのだ。

 だが――「笑うものたち」は後を絶たない。嘲笑は絶え間なく辺野古の抗議現場にぶつけられる。