イオンは、全国9店で早朝のラジオ体操向けの場などを提供している。東京の葛西店では、1周180メートルのウォーキングコースを設置し、無料で利用できるようにしているが、毎日100人以上が集まるという(同紙)。やはり高齢者の居場所になっているのだろう。

 店内の人工的なコースを歩くだけでは物足りない、それなら街中や川辺などを散歩する方が気持ちいいという人もいるだろう。それももっともなことだが、人工的なウォーキングコースに集まる人たちは、仲間との交流を求めているのではないか。

 カルチャーセンターや大学等の社会人向けの講座に通う人たちもいる。学期ごとに興味のある講座を探し、教室に通うだけでも良い刺激になる。通う場があるというだけでも居場所感が得られるが、そこで受講している人たちとの交流が生まれれば、ますますその感が高まる。

 大学の社会人向け講座に7年間通っているという60代後半の男性は、退職した後、ただ家でのんびりするという気にはなれず、座学だけでなく実習もある農業系の講座に通っている。実習で土に触れるのは気持ちよく、そこでの学びを活かして、家の庭で農作物をつくるようになったという。

 さらには、受講生の中には何年も前から通い続けている人たちもいて、そういう人が音頭を取って交流が盛んに行われるため、授業後も仲間たちとの賑やかなおしゃべりや気持ちのふれあいがあり、会社に代わる格好の居場所になっているという。

自分の居場所はどこにあるのかと考え込んでしまうとき

 居場所をもつことが大切なのだとわかり、何とか居場所づくりをしたいと思っても、具体的にどうしたらよいのかわからないという人も少なくない。

 会社勤めをしていた頃は居場所づくりなど意識したことがなかったが、今改めて考えてみると、勤めていた頃は自然に居場所ができていたのだと気づいたという人もいる。勤めていた頃は、職場の仲間と一緒に昼食を取りながらおしゃべりしたり、ときには仕事帰りに一緒に飲みに行ったりしていた。退職した途端にそうした日常が消え失せてしまった。自然に顔を合わせてしゃべるという機会がないし、ましてや自然に連れ立って食事に行く機会もない。わざわざ電話やメールで誘いかけない限り、会って話すこともないし、一緒に食事したり飲みに行ったりすることもない。組織を去っていった者に向こうから声をかけることもなかなかないだろうし、こっちから誘って忙しいなか無理してつきあってもらうのも心苦しいし、結局誘うのもためらわれ、勤めていた部署の仲間たちとはまったくつきあいがなくなってしまった。職場がなくなったことで仲間との交流もなくなり、改めて振り返ると、今の自分には居場所がないことに気づいた。そのように淋しい胸の内を語る人も少なくない。

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どこにも居場所がなくなってしまう