ただ最初は、「被爆地」として撮るつもりはなかったという。
「とりあえず『長崎の今』を撮ろう、ということで撮っていた。ところが、撮影していくうちに少しずつ『ああ、こんなものがある』という感じで、被爆した遺構物が目に入った。すると、いろいろなものが見えてきた」
90年代からは市の資料を調べたり、独自の取材で見つけた被爆遺構物を撮り歩いた。
壊れた石段や折れた石柱などに「ダイレクトに向き合って」撮影した。
「新聞社にいたものですから、『写真は斜め上45度から撮影する』という、習い性みたいなものがあった。そうすれば、物事を一番わかりやすく撮れる、というわけですが、被爆遺構の撮影ではそれに引きずられないように心掛けた。写真って、それだけじゃない、という思いが強かった」
「今日も生きている」
2010年、松村さんは撮りためた作品を写真集『ありふれた長崎-あの日から65年』(窓社)にまとめた。ただ当初は、長崎の日常生活のなかで目にした戦争の傷跡を収めた本にするつもりだったという。
「でも、それだけでは、どうしても不十分だと思った。それで08年から09年にかけて被爆者の方を撮らせていただいた」
撮影は長崎平和推進協会の継承部会の名簿を頼りに被爆者を探すことから始まった。
「名簿にあった何人かに、撮影をお願いしたら、谷口さんだけが、『いいですよ』と、返事をくださった」
長年、長崎原爆被災者協議会会長を務めた谷口稜曄(すみてる)さんは被爆当時、自転車で郵便配達をしていた。爆心から1.8キロの地点で背後から熱線に焼かれた。
<1年9カ月救護所のベッドにうつ伏せに寝たきり、先生や看護婦が見回りに来て「今日も生きている」とささやかれた>(『被爆75年 閃光の記憶』長崎文献社、松村明)
谷口さんは何度も皮膚の移植手術を受けた。松村さんはそんな谷口さんの背中や顔を撮影した。