8月9日11時2分に街で黙とうする人。長崎市平和町(2019年、撮影:松村明)
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2019年、松村明さんはニューヨークを訪れた。世界貿易センタービルの跡地に足を運び、シャッターを切った。

「この場所は『グラウンドゼロ』と呼ばれていますが、この言葉はもともと『爆心』という意味です。彼ら(米国人)の多くは本当の爆心を知らないのです」

毎日新聞社の写真部に勤めていた松村さんが初めて長崎を訪れたのは45年前。以来、100回あまりも足を運び、被爆地・長崎を撮り続けてきた。

「私の奥さんの実家が長崎なんですよ。長崎に行くと、そこが被爆地である、ということを明確に示すものがいくらでもあった。写真を撮る人間として関わるのであれば、それと真剣に向かい合うべきだな、と思うようになった」

捨てられていた第五福竜丸。東京都江東区夢の島の埋め立て地(1968年、撮影:松村明)

被爆地を撮る意図はなかった

1946年、京都市生まれの松村さんは、日大芸術学部で写真を学んだ。

「ちょうど日本橋をまたぐ首都高速道路ができたころで、すぐ近くに老舗の天ぷら屋なんかがあった。新しいものと古いものを一つの画面に写し込むのが面白いな、と思いながら撮影した」

そんな松村さんが在学中に写した作品の1枚に「捨てられていた第五福竜丸」がある。

第五福竜丸は54年、南太平洋・ビキニ環礁で米国が行った水爆実験で被爆した静岡県焼津港所属のマグロ漁船である。除染された船は東京水産大学(現・東京海洋大学)の練習船「はやぶさ丸」として使用された後、67年に廃船にされた。それを翌年、松村さんが偶然目にしてカメラに収めた。

「当時は『東京』をタイトルで卒業制作を撮影中でした。東京のゴミ捨て場だった埋め立て地をずっと写していた。夢の島(江東区)に行ったら、まさに打ち捨てられた、という感じの船があった。『はやぶさ丸』という名前だったんですけれど、何かのきっかけで調べたら、それが第五福竜丸だということがわかった」

69年に日大を卒業後、毎日新聞社に就職。78年、結婚を機に長崎を訪れ、街にレンズを向けるようになった。

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