哲学者 内田樹
哲学者 内田樹
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 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。内田さんの道場で催された「凱風館寄席」の、落語家の桂二葉さんの二席目の噺「らくだ」についてお届けします。

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 落語「らくだ」の話の続き。「らくだ」は「暴力とは何か」についての根源的な考察に私たちを誘う。この噺には2種類の暴力が出てくる。「らくだ」やその兄貴分の五郎がふるう暴力はいわば「専門家の暴力」である。つねに自己利益の最大化をめざし、他者には一切気づかいしない。だから、ある意味「合理的な暴力」と呼ぶことさえできる。

 けれども、酔って人格変容した屑屋の暴力はそれとは違う。これは彼のうちなる「怪物」が覚醒してふるう暴力である。そして、この「怪物」は屑屋自身とはほとんど別人格である。

 自分の中に「怪物」を飼っている人が時々いる。外側からはよくわからない。何かのきっかけでそれが不意に顔を出す。それはふだんのその人の人格特性の延長ではない。ふだんから粗暴な人間がより粗暴になっても、私たちはそれを「怪物」とは呼ばない。似ても似つかぬ「異形のもの」が見慣れた顔の皮を引き裂いてぬっと出てくるから怖いのである。

 先の戦争の時にも同じようなことがあったのだろうと思う。穏やかなおじさんや内気な青年が戦地に赴いて、何かのきっかけで、まるで別人のような形相に変わり、略奪し、放火し、強姦し、殺害した。そして、復員した後にはまたもとの穏やかなおじさんや内気な青年に戻った。なぜそのような「切り替え」が可能なのか、私は長く疑問だった。でも、「らくだ」を聴いて少しだけ腑に落ちた。

 屑屋であれ戦地の兵士たちであれ、自分のふだんの性格の延長上ではそのような暴力をふるうことはたぶんできない。けれども、ふだんの自分とは似ても似つかぬ「怪物」に主体の座を譲り渡したらどうだろうか。誰かと入れ替わったように、まるで別人になることができたら、どうだろうか。

 おそらくその「怪物」のなした行為について、当人は我に返ったあとにも後悔や反省や自己嫌悪に苦しむことはないのだと思う。それは「怪物」がしたことであり、自分には何の責任もない。その所業も曖昧(あいまい)な悪夢のようなものとしてしか記憶には残っていない。

「怪物」を怖(おそ)れよ。「らくだ」はそう教えている。

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

AERA 2023年7月31日号