安倍元首相殺害から1年。メディアでは、「安倍政治検証」の報道が続いた。また、安倍氏亡き後も安倍氏の政治が続いているかのように見える現象について、その解説を試みる記事も多く目にした。
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私個人としては、すでに今春公開のドキュメンタリー映画「妖怪の孫」とその原案となった『分断と凋落の日本』(2023年、日刊現代・講談社)で安倍政治の検証とともに、安倍氏亡き後の「安倍的なもの」による支配の強化という現象への「警鐘」を鳴らしたつもりだった。
しかし、今回のアベ一周忌フィーバーの記事を見る限り、この「危機感」が広く共有されるには至っていないようだ。
そこで、短い論考ではあるが、安倍的なもの――これを私たちは「妖怪」という言葉で表現した――の蔓延が、日本にとっていかに危険なものであるかについて解説してみたい。
この話に入るには、本来は安倍政治の検証が不可欠である。しかし、その余裕はないため、一言でおさらいすると、安倍政権は「レガシーなき長期政権」であった(拙著『官邸の暴走』<2021年、角川新書>の冒頭参照)。
当時はまだ安倍政治が素晴らしかったと信じる人も多かったが、外交では何の成果もなく、経済はマクロ的には破綻に向かってまっしぐら、主要な産業もボロボロだと指摘した。今は多くの有識者も同様の指摘を行っている。つまり、良い意味でのレガシーなど何もなかったということだ。
他方、マイナスの意味では、安倍政治は4つの大きな負のレガシーを遺した。
「官僚支配」「マスコミ支配」「地に堕ちた倫理観」「戦争できる国づくり」の4つだ。
いちいち説明する必要もないだろう。
念の為、安倍政治を検証する一つの簡易的方法として、安倍政治がなかったらどうなっていたかを考えるとわかりやすい。
例えば、外交安全保障については、安倍政治がなかったらどうなっていたか。
安倍政治の前までは、集団的自衛権は憲法違反で、これを認める議論などなかったし、台湾有事=日本有事など、口にもできない話だった。つまり、米中戦争が始まっても日本はそれに参加することなどできなかったのだ。