哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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私の道場では「凱風館寄席」というものを催している。
義太夫、浪曲、落語などの演者を招いて、芸をご披露頂き、併せて芸談を伺うという趣向である。
先日は落語家の桂二葉さんにおいで頂いた。NHK新人落語大賞、繁昌亭大賞、咲くやこの花賞などを連続受賞して、今乗りに乗っている噺家さんである。凱風館での独演会は4回目になる。
今回は「青菜」と「らくだ」の二席を伺った。
「青菜」は大店の主人の品の良い言い回しに感じ入って、それを自分も人前でやってみせようとしてしくじる植木屋の話。「十徳」や「阿弥陀池」などと同じ結構である。
こういう噺を聴いて感心するのは、おそらく無筆であった幕末明治の庶民の音声記憶力が現代人よりはるかにすぐれていたらしいということである。
現に、落語の中には「口上を覚える」という話がたくさんある。お使いにゆくときや冠婚葬祭の儀礼に行くときは、たいてい物知りの人が「先方に行ったら、こう言いなさい」と口伝えに教える。そして、意味がわからないうろ覚えの口上の文句を間違って口にしたり、お門違いな場所で言い立てたりして笑いものになるという話がいくつもある。
このことから落語が一種の教化的機能を担っていたことが知れる。繰り返される定型的な口上を笑いながら覚え、失敗談を通じて適切なマナーとは何かを学ぶのである。
以前、能楽師の安田登さんから謡曲は武士の基礎教養のための装置だという話を伺ったことがある。能楽には仏典、漢籍から記紀、万葉、古今集、源氏物語、平家物語まで、教養人が知っておくべき主題のほとんどが網羅されている。だから、謡の詞章を覚えていれば、それらが話頭に上ったときに、すらすらと一首を詠じたり、よどみなく故事来歴を語ったりすることができた。
落語は教養を身に着けるためというより「人間とは何か」を省察する機会を与えるための装置のように思う。
「らくだ」は人の底知れぬ暴力性についての噺なのだが、紙数が尽きた。続きは次回。
内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数
※AERA 2023年7月17日号