匠の技が光る「紅型」
ちんすこうが和と唐の食文化の融合であるように、琉球王国では中国をはじめ東南アジア諸国、日本との貿易が盛んに行われていた。この頃、海外のさまざまな文化が取り入れられ、琉球独特の文化が多数誕生した。華やかな彩色が美しい紅型もその一つで、かつては王族、貴族や宮廷舞踊の衣装としてのみ着用が許されていた。
紅型独自の技法は、15世紀にジャワ更紗(さらさ)やインドの染色技法、中国の型紙の技法や京友禅の影響を受け、18世紀には現在の形が確立されている。王府専属の職人がデザインや染めを担当し、当時は手厚い保護を受けていたが、廃藩置県や戦争を機に、紅型文化は衰退する。
戦後、焦土と化した首里で紅型の復興が開始されると、着物だけでなく、手に入れやすいネクタイやハンカチなども作られるようになり、米軍関係者の間で人気を博した。そして本土復帰後、沖縄を代表する工芸品として再び脚光を浴びたのだ。
現在、その技法は多くの職人に受け継がれ、伝統を守りながらも日々、新たな作品が誕生している。
自然の恵みが生んだ「織物」
沖縄の染織文化の起源も15~16世紀頃。中国の「紋織」と東南アジアの「絣(かすり)」が融合し、多くの技法が誕生した。さらに、沖縄の気候風土に育まれた芭蕉などの繊維植物や、染料にフクギなどの亜熱帯植物が使用され、独自性を加え発展していく。多彩な技法の中でも、花倉織や道屯織は、格式高い織物であったとされる。
王家や氏族の女性たちによって、大切に織り継がれた首里織は、王府の解体や戦争により衰退し、一時途絶えてしまう。戦後の混乱を経て、現在も続く染め織りは十数種。わずかな資料をもとに、数ある技法の中から少しずつ復元を果たしてきた。
現在は多様化するニーズに対応するため、伝統の優れた技法を活用しながら、機能性やデザイン性のある商品や新たな用途の開発など、さまざまな取り組みが行われている。