――研究所にはほかにも男性研究員がいたでしょう。なぜ一雄先生が良かったんですか?
なぜですかねえ。優しい人だと思いましたし、一緒にいて楽しかったからではないでしょうか(笑)。当時は、結婚はするものだと思っていましたし。
――女性はクリスマスケーキと同じなんて言われましたよね。24までは飛ぶように売れるけれど、25を過ぎたら売れなくなる。
そうそう、私は28でしたけどね。結婚して1年ぐらいして上の子が生まれました。実はスイスに留学する予定だったんですけど、「子供が生まれる」と伝えたら断られました。篠崎もスイスに行こうとしていたのですが、杉浦先生が大型研究費を得られたので留学に行けなくなった。私の場合は断られてダメになりました。
でも、良かったと思います。クローニングという技術を名大で勉強しましたから。それに、杉浦研は葉緑体DNAの全構造の解析もやり終えました。私個人の仕事としても、遺伝子が読まれるときのメカニズムを研究し、論文も書きました。
自分として誇れるのは、いろんなところへ行きましたけど、どこへ行ってもちゃんと論文を出してきたことです。
――その後、ロックフェラー大学に留学されたんですね。
3年か4年遅れで留学が実現しました。留学先は、植物の核の遺伝子の研究で有名なナムーハイ・チュア先生の研究室。シンガポール出身で、私たちの憧れの先生でした。当時はロックフェラー財団の資金でイネのプロジェクトも始まっていて、彼は多くの研究費を持っていた。同じラボで働きたいと言ったら夫婦とも雇ってくれました。
私は乾燥耐性に関係する植物ホルモンのアブシシン酸(ABA=エービーエー)に応答する遺伝子を研究テーマに選び、夫は光に応答する遺伝子を研究することになりました。念願の植物ゲノムの研究ができたわけです。
植物は乾燥すると、植物ホルモンABAをつくり出します。これが乾燥耐性に関係するいろいろな遺伝子を動かしますが、私はそのメカニズムを探りました。それを解き明かして環境ストレスに強い作物をつくれれば農業にも役立つと思っていました。
長女も連れていき、最初の1カ月は母も来てくれました。いいベビーシッターも見つかった。ニューヨークはすごく治安が悪くて道を歩くのも怖い時代でしたが、2年3カ月ぐらい滞在しました。