その後も「愛するアニタ」(1968年)、「バラの恋人」(1968年)といったヒットをものにし、またザ・タイガースに「シー・シー・シー」(1968年)を提供するなど、ソングライターとしても注目を高めていった加瀬。1971年にワイルドワンズが解散してからは沢田研二付きの作曲家、音楽プロデューサーとして辣腕をふるった。当時、渡辺プロの社員として沢田のマネージャーを担当した森本精人は当時の加瀬について次のように語る。
「加瀬さんが関わるようになったのは『許されない愛』(1972年)からでしょうか。曲作りとビジュアル面やステージの演出を担当していただきました。印象的なのは、沢田が『シャボン玉プレゼント』(ABCテレビ)でポール・アンカの『ダイアナ』をカバーして歌った時。加瀬さんから『森本、沢田のダイアナはどうだった?』と聞かれ『とても良かったと思います』と答えたのですが、それからしばらくして出来上がってきたのがあの『危険なふたり』(1973年)でした。『ダイアナ』と同じく年上の女性への愛を歌った内容でロカビリー調。ご存じの通り大ヒットをおさめるわけですが、沢田の魅力を引き出すことにかけては加瀬さんの右に出る人はいませんでした」
1970年代から1980年代にかけ、加瀬は沢田という時代の偶像を通して日本の音楽シーンに大きな変革をもたらしてゆく。
「加瀬さんの功績は楽曲提供もさることながら、早川タケジさんをアートディレクターに抜擢したことです。当時はいち歌手にアートディレクターが付くなんて思いもしない時代でした」と森本。セツ・モードセミナー出身のイラストレーターで、当時、テレビCMのスタイリストとしても注目を浴びつつあった早川。彼の先進的なセンスを知った加瀬は、共通の知人を介して沢田のプロジェクトチームに加わるよう懇願したのだ。早川は当時の加瀬との仕事について「僕が加瀬さんとご一緒したのは『危険なふたり』の少し前から1980年代前半のEXOTICSの時期まで。メイクやボディーペイント、ギラギラの衣装、ずいぶん過激でアブノーマルな演出を提案したと思うんですが、加瀬さんはそれを全部面白がって実現してくれました。ロック以外に、ハリウッドミュージカルや宝塚など、レビュー全般にも強い興味をお持ちの方でした。私も歌舞伎や映画全般、ミュージカルにも興味がありましたので、仕事面では大変気が合いました。あんなに豊かなエンターテイメント観を持ったプロデューサーは後にも先にも加瀬さんしか知りません。おまけに人柄が良くて、器の大きい方でした。子供の頃から変わり者で対人関係の苦手な僕だけど、加瀬さんといて嫌な思いをしたことは一度たりともなかったです」と懐かしむ。
加瀬のプロデュース力は「勝手にしやがれ」(1977年)、「カサブランカ・ダンディ」(1979年)など自身が制作に関わっていない楽曲でも発揮され、1980年の「TOKIO」で大輪の花を咲かせた。貧しさを忘れ、経済大国となった日本の首都・東京の栄華と反面の孤独を、当時最先端のテクノポップサウンドに乗せて歌ったエポックメイキングな楽曲だ。「『TOKIO』のシングル盤は1980年1月1日リリース。流通の事情を考えたら普通あり得ませんが、『この曲で1980年代が始まるんだ』という意気込みで関係先に頼み込んで実現しました。この難プロジェクトを先導したのは加瀬さん。紅白歌合戦が終わった後、生放送番組「ゆく年くる年」(NHK)で沢田が大きなパラシュートを背負ってこの曲を披露した時は痛快でしたね。この曲以降、沢田はよりビジュアル重視にシフトチェンジしてゆくのですが、それに合わせバックバンドをデビュー以来の井上堯之バンドから若いバンドに切り替えるよう決断したのも加瀬さんでした」(森本)
沢田と並行してアグネス・チャンやアン・ルイスらにも盛んに楽曲提供し、作曲家としての地位を確立した加瀬。1981年にはワイルドワンズを再結成し、ふたたび自身の表現活動にも積極的に取り組むようになった。その後、徐々にマイペースな活動にシフトした加瀬だが、2010年に沢田研二とコラボレーションした「ジュリー with ザ・ワイルドワンズ」では久々に往年の辣腕プロデューサーぶりを発揮したという。