グループサウンズ(GS)の頂点にいた沢田研二(ジュリー)を、日本全国津々浦々、老若男女を魅せる「スーパースター」にしたのは、希代のプロデューサー、加瀬邦彦だ。ザ・ワイルドワンズのリーダーでギタリストだった加瀬は1960年代後半に若者たちが巻き起こしたGSブームをどう生き、そしてジュリーをつくりあげたのか。
1966年6月、日本武道館。斬新な音楽性で世界中を席捲したザ・ビートルズの日本公演には、数多の若者が押し寄せた。その人波、25歳の加瀬の姿もあった。本来であれば、加瀬は寺内タケシとブルージーンズのメンバーとして前座を務めるはずだった。しかし出演者はビートルズと接触はおろか観覧さえできないことを知り、直前にグループを脱退。一観客として会場にいたのだ。
当時、日本の音楽シーンではビートルズや後続のザ・ローリング、ストーンズの影響を受けたミュージシャン達によってグループサウンズブームが盛り上がりつつあった。1966年3月にジャッキー吉川とブルー・コメッツがリリースした「青い瞳」は販売数50万枚といわれるヒットに。以前、加瀬が短期間所属していたザ・スパイダースも、いまだヒット曲はないものの着々と存在感を増してきていた。この頃の加瀬の置かれた特殊な境遇について、ザ・ワイルドワンズの島英二は語る。
「ブルージーンズを脱退した際、普通ならクビになるところを渡辺プロダクションから強く引き留められたそうです。それだけ加瀬さんは周囲から才能を期待されていたのでしょう」
ビートルズの武道館公演前後から、加瀬は渡辺プロからの期待に応える形でワイルドワンズの結成に向け動き出していた。まず加瀬の誘いに応じたのはドラマーの植田芳暁。
「当時、僕は早稲田の大学生になる前の浪人生で、アメリカンスクール在学中の友達とバンドを結成していたんですが、ある時、池袋のデパートの屋上で開催された『日米対抗バンド合戦』というイベントに出演しました。加瀬さんはイベントに協賛していたYAMAHAの方から『ドラムを叩きながら歌える珍しい奴がいた』という評判を聞いて連絡をくれたんです。『あの加瀬さんから誘いが来た!』と驚きましたが、日比谷で初めてお会いした時のアイビールックの洗練されたファッションと誠実な人柄にはさらにシビれました。条件もとても良かったし、すぐに加瀬さんと一緒にやっていこうと心に決めました」
植田に続き、加瀬は人づてに鳥塚しげき、島らをメンバーに抜擢。いずれも関東の学生バンドシーンではホープと目されていた面々だが、年齢は6、7歳年下。ミュージシャンとしてめざましい前歴があるわけではなかった。加瀬がワイルドワンズで目指していたバンド像について「加瀬さんはビートルズのようなグループを目指しながらも、音楽的にはアメリカ西海岸で流行っていたウエストコーストサウンド、たとえばバーズやママス&パパスのようなフォークロックを志向していました。また下積みのようなことはせず、初めからレコードデビューやその後のメディア露出を前提に活動していくとも言っていました。業界に染まった感じじゃなく、学生らしいさわやかさを前面に押し出したイメージを描いていたんですね。加瀬さんは学生時代から加山雄三さんと親交があったことが有名ですが、音楽界、芸能界だけじゃなく美術界、演劇界など交友関係が幅広く、当時から際立ったセンスとプロデュース眼のある人でした」と鳥塚。加瀬の戦略はみごと功を奏し、1966年11月にリリースしたデビュー・シングル「想い出の渚」は公称100万枚超の大ヒットに。爽やかなコーラスと加瀬の奏でる12弦ギターの響きは今も多くの人に愛されている。