

相変わらず世界がざわざわしていてなかなかなにかを書く気になれない。大学1年の息子と私とは世界の見え方が当然違うと思うのだけど、私は若者に向かって上から目線で滔々と自説をまくしたてるようなおっさんは嫌いだ。とても良いことを自身の経験と知恵を熟成、発酵させて言える人は本当に少なくて、多くは自分をどこかになんとか「着地」させてそこで無理矢理、自己納得&小風呂敷を広げているだけのようだ。(ああ、また「ほめちぎっ」の逆を言ってる。やめなはれ!) かと言って黙っているのももどかしいし、一緒にTVを見ながら口の中でモゴモゴと曖昧な言葉を自信なさげにかき回しているだけの自分が情けない。が、「自己責任論」で蓋をして、はい、おしまい、だけはしない。それだけはしない。自己責任に着地させてしまうことは思考停止だと思うし、世界の複雑さには「思考のゆらぎ」で、たえずその複雑さから逃げたい、腰をひきたい、臆病になりながらも、視線だけはまっすぐ、対象を見据えていかなくてはと思う。
「座右の銘」ってありますか? と時々きかれることがある。私は「ぶれる」だ。以下、敬愛する細野晴臣さんの『分福茶釜』(細野晴臣・著/鈴木惣一朗・聞き手/平凡社ライブラリー刊)の最初のページから引用します。
「ぶれないでいるっていうのは無理をしないとできないんだろうと思うよ。本来は、ぶれなきゃおかしいんだから。<略>中庸っていうのね。これは、お釈迦さまの言った一番大事な教えなんだけれども、それは、あっちにも行かずこっちにも行かず真ん中を歩くということじゃなくって、あっちとこっち、その両方行かないと真ん中にならないよ、という教えなのかもしれない。振り子みたいなもんだよ。<略>綱渡りで大事なことはぶれることなんだよ。振り子も同じ。人間の観念もそう。<略>いくら安定を求めたって人は誰だって揺れてるんだよ。言ってることと起こってることは違ってるんだ。」
ブランコのように揺れたり、ぶれたりし続けていると酔ってしまうし、それはそれでたえず精神は緊張していることなので、私も時々細野さんや、佐藤優さん、内田樹さんやら、信頼している人のとこに着地してホッとしてしまう。が、着地=安心ホッと一息=真ん中を歩く、で安心している場合ではない、とたえず自戒している。世界は動いている。またすぐに飛びたたねば、と、しんどいけど自分にムチを入れる。でも「ぶれない」人はなんか突然強い負荷がかかった時ポキッと折れてしまうかもしれないけど、「ぶれる」人は大きく揺れるかもしれないけど折れはしない。その折れない強さを持つことがこれから生き延びていく知恵ではないでしょうか。(ああ、なんかえらそうな私 結局は自説を持ちたいがためにあっちゃこっちゃウロウロ徘徊してるだけなんじゃないの? これまた自虐的すぎるか(^_^;))
今回は細野さんの最新刊『とまっていた時計がまた動きはじめた』(平凡社刊。聞き手はもちろん鈴木惣一郎さん。このチームでの次作はまた5年後! 今から首を長くして待つしかない。そして5年後の世界や如何に!?)をしょっぱなからほめちぎりたかったのですが、ここまでの前フリの長さになってしまった。私などがとやかく言うよりも、とにかく前述の『分福茶釜』とこの2冊、黙って読んでください。私、なんども読み直して、そのたんびにスカッとしています。そしてまた飛び立てる力を頂いています。どのページからも今を生きる音楽家へのエールが聞こえてきます。美味しくて栄養になる話しに満ちあふれています。ウイットに富んでるし、シニカルな粉もパラパラ適度に。もちろん苦言も呈されているところもあり、これは襟を正して聞かなくては、と思う。
ほめちぎっ! ちぎっ! ちぎっ!(ト書き ここは「ためしてガッテン」のように叩きまくる)
最後に細野さんの、心に染みわたる一言をどうぞ。シビれた~参りましたm(__)m
「ぼくはね、いつもバンドのメンバーに、お豆腐を手のひらに持って包丁で切るような演奏をしてくれって頼んでるんだ」。ああ、心してです、細野さん! [次回2/9(月)更新予定]

